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うさぎパイナップル

ただ、書くことが好きなだけです。

世界選手権2017雑感⑥

さあ、時は来た。泣いても笑っても、この頂上決戦の覇者が決まる。男子フリー、最終グループ。決戦の前に設けられた最後の6分間に、選手たちは強い眼差しとともに滑り出していく。

相変わらず選手紹介が格闘ゲームのキャラセレクト(笑)。それに敬意を表して(笑)せっかくだからこの戦いを「魔強統一戦」と呼ぶことにするか。…だから誰が知ってるんだよ魔強統一戦(笑)。でもプレミアついてて入手困難らしいぞ。確かに面白かったもんな。戸愚呂兄とか←そこから離れろ

再び第一滑走を引いた羽生君。この滑走順が吉と出るのか凶と出るのか。「お守り」を握りしめて祈りながら、6分間練習の終わったリンクにひとり滑り出す羽生君の姿を見守った。
ピアノの旋律が厳かに流れ始める。ループは美しく成功。サルコウも綺麗に決まる。このプログラムによく似合うビールマンスピン。微笑みをたたえて踏むステップ。まるで世界を抱きとめるかのような柔和な微笑み。ここでスケートの神はこのフィンランドのリンクに、羽生結弦の体に降りてきたのだろう。今振り返ってみると、そんな風に思う。
ステップの一部であるかのようなフリップがふわりとした風のように決まると、演技は後半へ。会場のファンも、テレビの前のファンも、千切れる程に祈ったのではないだろうか。サルコウのコンビネーション、すべてはそれにかかっている。頼む、降りてくれ、と。
そしてその時は来た。今シーズンずっと成功のイメージのなかったサルコウトゥループのコンビネーション。降りた。美しく降りた。それは成功した場合はいくらでも加点の付く、羽生君のあの美しい、研ぎ澄まされた美しいジャンプだった。それを、この大一番で決めた。会場を埋め尽くす歓喜の絶叫。私はもうこの時点でたぶん泣いていたような気がするけど、よく覚えてません…。

サルコウのコンビネーションの成功を見て、これはこのまま最後までノーミスでいけるのではないかと思った。トゥループの成功でなおさらそれは確信に変わってきた。アクセルはほとんど心配していない。あとは最後のルッツだけ。
畳み掛けるようなジャンプ、スピン、コレオグラフィックシークエンス。喉から漏れ出す嗚咽を押し止めながら、私は祈りの姿勢を崩さないまま見守った。希望に満ち溢れた、今後多くの人の心の遺産となるであろう、最高の演技が完成する瞬間を。
会場の想いはたったひとつだったろう。その祈りは届いた。舞い上がる羽生君の右足が白い氷を掴む。ルッツ成功。
もはや歓声で音楽が聞こえない。最後のスピンを回り終え、神から受け取ったエネルギーのすべてを差し出すかのように、羽生君は両手を広げた。叩きつけるようなピアノの音とともに、伝説は完成した。

素晴らしい演技に涙したことはこれまでに何度も何度もあった。一生忘れないだろうと思った演技もいくつもあった。けど、テレビの前で嗚咽し続けるほど泣いたのは、これが初めてだった。
なんという、なんという選手なんだろう。完璧な演技を行わなければおそらくは勝てないであろうこの局面でノーミスをやってのけてしまうとは。しかもただのノーミスではない。4分半の間に行われていたすべてが、抜群のクオリティだった。そしてそれ以上に、この演技には「何か」があった。もはやフィギュアスケートという競技の枠を超えた何かが。

古来、人は神に、歌や踊りを捧げてきた。災害や疫病を封じ、日々を生き抜いていくために、神の力を借りることを厭わなかった。羽生君のこの演技は、まさに神へ捧げる祈りの舞だと思った。もちろん本人はそんなことは考えてもいないだろう。これはフィギュアスケートというスポーツの歴史上最も完成された演技のひとつ、ただそれでしかない。けれど、至高の頂にまで登り詰めた技術と舞踊の調和は、神をその身に降ろすのだと、羽生君はまさしくそのような感性の持ち主であり、だからこそ我々は彼の演技にこれほど心を揺さぶられるのだと、ここ数年時々感じるようになっていたぼんやりとした感覚が、はっきりと形になったように思えた。あの時、ヘルシンキのリンクには確かに神がいた。日本的な音楽と、研ぎ澄まされた舞と、羽生結弦という稀有な魂が、神を呼び出したのだ。
世が世ならば、羽生君は世界を変えてしまうような人物になっていたのではないかと時々思う。でも、この現代において羽生君が選んだのが、フィギュアスケートという世界中の人々が目にすることのできる競技であったこと、そこには大きな意味があったのだと思った。そんなことまで考えてしまうほど、この日彼が演じた「ホープ&レガシー」は素晴らしかった。素晴らしいなんてものじゃなかった。フィギュアスケートのファンでいて良かったと、心から思った。

ノーミスの演技さえやってのけてしまえば、羽生君はいくらでも点を出せる。演技構成点は必ず高得点が取れるからだ。あまりの感激に、正直点などどうでも良くなっていたが、圧倒的なスコアになることはもはや予想するまでもないことだった。
キス&クライ。得点が発表される。フリーの世界最高点が更新された瞬間だった。正直もっと出ても良かったと今は思うのだが、第一滑走だったことも影響したのかもしれない。
得点を目にした羽生君が、一瞬だけ浮かべた表情を目にして、まったく止まっていなかった涙がさらに溢れてきた。安堵したような、泣き出しそうな顔。絶対王者だと口にして自分を奮い立たせている青年がどれだけの覚悟を背負って日々鍛練を重ねてきたのか。その努力が結実したことへの万感の思いが、そこにはあった。
羽生君は、泣いてないよ、と強がっていたし、実際に泣いていなかったのかもしれないけれど、彼の左頬を伝う汗は、涙のようにも見えた。

これでまったく展開がわからなくなった。初めてまじまじと技術点の速報カウンターを見ながらこの後の最終グループの選手たちの演技を見守ることになるのだが、もう誰が何をやったとしてもこの点を超えるのは不可能だ、と率直に思った。自分が選手であれば絶望しているかもしれない。生放送で良かったと本当に思った。誰もこの先の展開を知らない。知っているのは、スケートの神ただひとりだ。

あまりにも長くなったので、次回に続けます。