うさぎパイナップル

書き散らしてるときだけが生きてる気がするんだ(社会不適合者・居場所募集中)

All Japan Medalist on Ice 2014⑨

※この記事は昔書いたものを修正して今更載せています。詳細についてはこちらをご覧ください↓

usagipineapple.hatenablog.jp

 

20分程度の休憩ののち、後半がスタート。オペラ歌手の美声が氷上に響き渡り、第2部の開始が告げられる。

第2部最初の演技者こそ、このメダリスト・オン・アイスのクライマックスだった。見慣れた白と黒の衣装でリンクに現れたのは町田樹。現役最後の演技が始まった。

最後の演目に彼が選んだのは「エデンの東」。サリーナスの大地を慈しむような、あのメロディーが流れ出す。
彼は競技人生最後のわずか2年足らずの日々で、作中に登場する言葉「ティムシェル」を体現した。ティムシェルは非常に深い言葉で、その言葉を物語の核としたエデンの東も非常に深い話である。町田君が「理解のために原書を読んだ」と言っていた理由がわかるほど深い。旧訳も新訳も、さらには作者が執筆中に残した創作ノートまで読んだが、その上で原書にも手を出すべきかもしれないと私も思った。もっと若い頃に読むべきだったと後悔している。あの頃の自分ならもっと水が吸うように物語を理解できたかもしれないし、何よりかなり間違いなく人生を変える一冊になっていたと思うから。なのでまだ若い町田君がこの作品に感銘を受けた気持ちは痛いほどわかる気がするし、最後のプログラムに選んだのも納得できる気がする。

最初のジャンプは抜けてしまったが(たぶんジャンプだったと思うけど違うかも)、あとのふたつのジャンプは素晴らしかった。私は町田君のジャンプが好きだ。表現に長けたスケーターを好む傾向がある私だが、町田君のファンになったきっかけは実はジャンプだったりする。あの小さな身体から繰り出しているとは思えない豪快なジャンプに衝撃を受けた。それ以来町田君の演技の中で最も楽しみなのはいつもジャンプだった。
最後の演技。高くて力強い、見惚れるようなジャンプをふたつ、彼は跳んでみせてくれた。私はジャンプの見分けがまったくできないけど、この時だけはわかった。ひとつめがトリプルアクセル、そして最後に跳んだのはルッツ。いつか広島のリンクでも見せてくれた、大きな大きな、空へ舞い上がるようなトリプルルッツ。それは宝物のようなジャンプだった。最後の最後に町田君がくれた、最高のクリスマスプレゼントだった。

最高の出来ではなかったと思うし、もっともっと感動した彼の演技ならこれまでに何度もあったと思う。でも町田君は穏やかな笑顔だった。最後の時をいとおしむようなその顔を見ていると、何故今辞めてしまうの、などとはとても言えなかった。ティムシェル。人間には選択する権利がある。町田君は自分の道を自分で選んだ、ただそれだけなのだ。

たぶんすべての観客がスタンディングオベーションを送っていたと思う。山本草太君から手渡された赤いスカーフを首にかけ、マイクを手にした町田君が、その観客に向かって挨拶を始める。
本当に、いい競技人生でした…。そう言って彼は声を詰まらせた。もう、涙をこらえることなどできなかった。

最後にもう少しだけ、この曲とともに滑らせてください…。曲は「Je te veux」、とプログラムのタイトルを口にして、赤いスカーフとともに町田君が滑り出す。誰もが一度は耳にしたことがあるだろう、あの甘やかなピアノの旋律。結局映像ですら見たことのなかったこのプログラムを、こんな形で目にすることになるなんて…。
Je te veux、英語にするならI want you。パリの街角で口づける男女の写真(これもたぶんものすごく有名な白黒写真)をモチーフにしたというこのプログラムに描かれているのは恋だろう。赤いスカーフは愛しい相手を表しているのだと思う。でも彼にとってのその相手は競技としてのフィギュアスケートだったのではないか。少なくとも、今この長野のリンクで彼がともに滑っているその相手は…。
入退場口に消えていく町田君。なびくスカーフが先に氷を離れた彼の身体を追って視界から消える。まるで名残を惜しむように。まるで、燃え尽きる寸前の蝋燭の灯りのように。まるで、彼が最後にひとかけらだけ白い氷に残していった、静かな情熱の炎のように…。

感動して客席で涙を流したことは多々あれど、声を上げて泣いたのは初めてだった。近くの席の方すみませんでした(泣)。でもきっと、私以上に泣いていたファンがたくさんいると思う。本番に弱くてなかなか結果の出せなかったあの町田君に、こんなにもたくさんの人が総立ちで拍手を送り、別れを惜しんでいる。2013年の春、ビッグウェーブのスタンドでひとり彼の演技が始まるのを待っていた私にこの状況を教えたら、一体どんな顔をするだろう。

私はきっとこの瞬間に居合わせるために夢に導かれたのだ。躊躇っていた長野行きを諦めなくて良かった、と心から思った。
町田君、長野で送った手紙にも同じことを書いたけど、最後にもう一度だけ言わせてください。あなたのこれからの人生に、たくさんの幸せと成功が訪れることを、心から祈っています。

以下次号。