私が子供の頃にはそれほど一般的ではなかったように思うのですが、ここ数年ですっかり市民権を得た気がしますね、ハロウィン。お祭り好きの日本人の国民性に合うのでありましょうか。
確かにハロウィンはワクワクします。何をするというわけでもないんだけどワクワクする。だって、ハロウィンのグッズってめっちゃ可愛いんだもん。
毎年何かひとつは買いますね。特に100均で。おばけとかかぼちゃとか、ハロウィン衣装のぬいぐるみとか、とにかくかわいくて、コーナーができるのが毎年楽しみだったりします。今年は100均で買うお金すらなくて、とてもさびしいんですけどね…。ずっと社会の底辺で生きてきたけど、こんなに辛いのは過去最高かもしれない。辛すぎると涙も出ないみたい。
ホントはかぼちゃ嫌いなんだけど(パンプキンスープはわりと平気だけどかぼちゃの形がそのまま残ってたりするとアウト…)ハロウィンの時期だけは観賞用のかぼちゃをわざわざ買ってきて飾ったりする。玄関には多少の季節感は持たせようと一応心掛けてるけど、ハロウィンの時期がいちばん飾りつけが楽しいですね。もちろん毎年何かしら増えていく(笑)。
2年前くらい前のこの時期に、ハロウィングッズを色々持ってきて飾り付けしたの楽しかったな、って今唐突に思い出した。たった2年前なのに、あの頃はそれなりに楽しく生きてた。誰のことも嫌いでも苦手でもなくて、むしろその逆だった。だから、腫れ物に触るように扱われ始めたのに気付いた時、どんなにどんなに傷付いたか。心配してあげてるの、って上から目線で言われても私には何も伝わらなかったよ。私の思いが誰にも伝わっていなかったのと同じように。
いかん、涙出てきたぞ。もう忘れよう。連絡先も消したんだから。もう思い出さなくて済むように。
ハロウィンと言えば、昔々に見たスヌーピーのアニメが忘れられない。各家庭を回って脅してお菓子をせしめて、それぞれが何をもらったのか自慢し合う様子が描かれるんだけど、チャーリーブラウンは全部かりんとうなの。かりんとうしかもらえずに終わるの。あんな恥ずかしい(笑)行為に耐え忍んだのに、全部かりんとう。かりんとうが嫌いな私には恐怖でしかなかった(笑)。
あともうひとつ忘れられないのが、同じく子供の頃に読んだ漫画『魔法の砂糖菓子』(萩岩睦美/集英社)。確か誰かに借りて読んだんだけど、ずっと忘れられなかったので、何年も経ってから本屋で探して買って、今でも手元に置いてある。この先も手放すことはないと思うな。
主人公のマリーは不慮の事故で両親を亡くし、親戚の家に引き取られるも、虐待されて育てられることになる。ある日マリーは一軒の家に迷い込むが、そこはハロウィンに人間の世界にやって来て、戻り損ねてしまった妖精の暮らす不思議な場所だった…。
簡単に説明してみました。これだけだとかわいらしいファンタジーのように思えますね。実際そういう側面も多い。でもそれだけの作品だったら、私はわざわざこの作品探し出して買ってない。
是非実際に読んで欲しいので、物語の詳細はあまり書きたくないのだけれど、何せ古い漫画だし、ある程度物語に触れなければ以下に書こうと思っている内容が成り立たないので、盛大にネタバレします。ストーリーを知りたくない方は以下は読まないでください。
物語は20歳になったマリーが、5歳くらいの頃のことを回想している、という形式で進みます。ずっと厳しい境遇で育ったマリーにとって、人生で唯一の楽しかった思い出が、妖精の住む家で過ごしたわずかな日々でした。今となってはそれは夢だったとマリーは思っているのですが。
冒頭で結婚式に向かう20歳のマリーの様子が描かれたあと、14歳のマリーが行き倒れの老人にパンを分け与える、というシーンを挟んで、5歳のマリーの物語に移っていくのですが、この14歳のマリーの場面は、物語全体を通して見ても唐突に感じます。何故この場面が必要だったのか、昔はずっと疑問でした。
元の世界に戻らなければならない妖精に、自分も連れていって欲しいとマリーは懇願しますが、まだ幼いマリーは人間の世界で素敵なものに巡り会わなければならないと言い残し、妖精は消えてしまいます。
美しく成長したマリーは有力者の息子と結婚することになりますが、マリーにとって意に染まぬ結婚であり、式が終わるまでに自殺するつもりで彼女は結婚式に臨みます。その結婚式に、14歳のマリーが助けたあの老人が現れるのです。涙を流しながらマリーに感謝を述べる老人。
その時マリーは言うのです、素敵なものに巡り会えた、と。
マリーは結局、あの妖精と再び出会うことになります。最後に、おそらくマリーが妖精の世界へさらわれていってしまったことを暗示して、物語は終了します。
何故、マリーにとっての素敵なものは、老人との再会でなければならなかったのでしょうか。美しい花嫁姿でも、有力者の息子との結婚によって得られる地位でもなく。
そこにこの物語の核があるように今となっては思えてなりません。
一度は見捨てようとしたマリーですが、結局行き倒れの老人にパンを差し出してしまいます。マリーがパンを分け与えなければ、おそらく老人とその飼い犬は死んでいたでしょう。でもパンがひとつ足りなかったことで、マリーの親戚はマリーを酷く折檻します。
マリーの行為は、本来であれば当たり前のことです。マリーのかごにひとつもパンが入っていなければ助けることはできませんが、マリーはすぐに老人を助けられる手立てを持っていたのですから。
親戚の家も裕福ではないのでしょうが、パンがひとつ足りなくてもすぐに困るようなことはないはずです。それでも、たったひとかけらのパンですら、その親戚は惜しんだ。マリーは親戚に殴られることをわかっていても、パンを分け与えた。どちらが人としてあるべき姿なのか、本来であれば言うまでもないはずです。
助けられた老人は、ずっとマリーと、マリーに礼を言う機会を探していたのでしょう。誰からも見捨てられ、死ぬ寸前であったのであろう老人に手を差し伸べたのは、同じように誰からも見捨てられたマリーだけだったのではないでしょうか。
誰かのためにその手を差し出すことを厭わない人間でありながら、決してこの世界で報われることのないマリーであったからこそ、妖精の世界への扉は開かれたのではないか。この世ならざるものに連れ去られて行方不明になるという、恐ろしい結末でありながら、しかし唯一の救いがそこにしかない。一見ハッピーエンドのようで、実は絶望的な物語の終焉。最後のページの描写もそのことを象徴しているように思えてなりません。
連れていって、と叫んだマリーの気持ちが、幼い私には痛いほどわかりました。かごにパンが入っている時ならば、行き倒れとまではいかなくとも、必要な人に分け与えてきたつもりです。それは当たり前のことで、そしてそうしていれば、いつか素敵なものに巡り会えるのだから。もう苦しむことのないであろう世界へさらっていってもらえるのだから。
今の私はかごに何も入っていないマリーであり、行き倒れの老人でもあるでしょう。たくさんパンを持ったマリーが歩いているけれど、誰も振り向かないのを黙って見ています。村役場へ行って助けてもらいなさい、と言い残して去っていく人ならいるかもしれません。行き倒れて動けないのにね。そして同時に、今にも死んでいこうとしている人に、ひとかけらのパンですら渡すことのできない自分に、唇を噛んでいるのです。
私は素敵なものに巡り会えないマリーであり、マリーに救われることのなかった老人。物語が破綻してしまいますね。それでも妖精の世界へ通じるあの家は、私の前にも現れるでしょうか。ハロウィンが終わるたびに、どこかにあの家が建っていないかと思ってしまう私がいます。今年もきっと探すのでしょう。たとえそれが、絶望的な結末への扉であるのだとしても。
『魔法の砂糖菓子』に収録されている『藍いろの家』という作品も読みごたえがありますので、機会があったら是非読んでみてくださいね。