うさぎパイナップル

主にフィギュアスケートの旅日記とテレビ観戦記とお題記事・ただ書き散らして生きていたい

Fantasy on Ice 2014 in Makuhari⑧

※この記事は昔書いたものを修正して今更載せています。詳細についてはこちらをご覧ください↓

usagipineapple.hatenablog.jp

 

さて、ここからは個人演技。トップバッターは今井遥。曲はヴォーカル入りのマラゲーニャ。今シーズンから競技でもヴォーカル入りの曲の使用が可能になるため、ショートプログラムに選曲したみたいです。
一見、赤と黒のスパニッシュな定番の衣装なんだけど、背中や裾のデザインが凝ってて、どこか品があってすごくかわいかった。やっぱり遥ちゃんの衣装はハズレがないなー。単に私の好みなのかもしれないけど。
演技もスタオベしようか迷ったくらい。今年の遥ちゃんには期待できそう。ドキドキする。

早速本命の片割れが登場。町田樹。曲はロシュフォールの恋人たち。これ滑り続けてるんだね。
このプログラムは何度か生で見たけど、2012年のスケート感謝祭で披露した演技を超えるものにはまだ巡り会ってない。あれはその後の町田君の活躍を示唆するような、鬼気迫る演技だった。でも幕張での演技もなかなかだったと思う。てかほぼノーミスだったっけ?自信のついてきた町田君の、しなやかで堂々とした演技に早くもスタオベ。素晴らしい。
衣装は白いシャツの肩口に緑のキラキラした刺繍を縫い付けたものに変わっていました。初めて見たスケート感謝祭では演技中に脱げてきてしまうような普通の白いシャツだったのに。そんなところにも、去年の今頃と現在の町田君の立場の違いを実感して、嬉しいような寂しいような。

しかし、会場ではそこまでわからなかったけど、すごく美しいメイクが施されているのに衝撃を受けた。まるで別人ですよお兄さん。町田君は整った顔立ちだとは思うけどわりと地味だから、やはり化粧映えがするのだろうか。

続いてはゲブ・マニキャン。よたよたと杖をつきながら出てきた老人が、突然激しくブレイクダンスを踊り始め、ひとしきり踊るとまた元の老人に戻っていくという面白いプログラム。わしの若い頃はディスコのキングの名を欲しいままにしたものじゃった…などという呟きが聞こえてきそう(笑)

村上佳菜子。ジュニア時代のプログラムを手直ししたものだそうですが、ものすっごく良かった。日曜日はスタオベしたと思う。赤い衣装に包まれた身体はしなやかで躍動的で、彼女の演技にいつも感じる「生命力」がこのプログラムにも強く表れてるなと思いました。

ジョニー・ウィアー。インド映画の音楽を使った新しいプログラム。白い孔雀のような衣装にはスカートにしか見えない大きなフリルがついている。最近私服はスカートらしきものを着用してるっぽいジョニーですが、衣装までそういう風になってきてしまったか。メイクもすごい。派手。すっぴんの方が綺麗だといつも思うけど、まあショーだしね。

プログラムの仕上がりは正直イマイチかなあと思った。ジョニーはなんだかすごく寂しそうだった。随分痩せたし、いつもの存在感も薄かったように思う。
やはり旦那さんとの離婚が影響してるんだろうなと思わざるを得なかった。1年前の福岡で見かけた旦那さんはごく普通の人に見えたけど、噂ではどうもあまり好ましい人格の人物ではないようだった。たぶん我々の近くにいた誰かに挨拶するついでに会釈してくれた旦那さんは地味で無害な人物に思えたけれど、わからないものである。

そもそも男性同士というものは長続きしないものであるとどこかで聞いたように思う。それはそうだろうな、と何となく納得はできる。何故なら人間は人間である以前に「生物」だから。
生物が生きる理由は「滅びない」ためである。つまり子孫を残すためである。すべての生物は自らの種を滅ぼさないために生まれてくるのであり、すべての世代は前の世代から次の世代へバトンを受け渡す役目を担っているに過ぎない。それは世界に生命が誕生した瞬間から当たり前のように行われてきた理であり、我々は本能でそれを悟っているはずである。
未婚で子供を持たない人間を「負け組」と呼ぶ風潮があったけれど、あれはそういう意味で非常に正しい。人間は生物である。結局子孫を残せた人間が勝ちなのだ。どんな発明や発見や功績を残したとしても、それらは技術の進歩や時代の変遷とともに忘れ去られていくかもしれない。でも子孫が生き続ける限り、その人間が生きた証は遺伝子に記憶されていく。そしてそれは同時に、人間という種を滅ぼさないという使命を果たしたということでもある。
子孫を残すことのない、生物としての使命を放棄した存在が世間に受け入れられないのは、実はごく当然のことなのかもしれない。人間は社会的存在でもあるから、そういう意味ではどんな人間が存在したってまったく構わないのだが、それでも人間のヒエラルキーの最上位は「生物である」ということである。それはすべての人間が逃れることのできない真理だ。生物として、そういった存在に疑問符を投げかける人間がいても何の不思議もないし、そして当人もその不自然さに抵抗しきれないのかもしれない。そもそも人間以外の世界でなら、自然界なら、イレギュラーな存在は淘汰される可能性が非常に高いはずだ。我々は人間であるからこそ、あらゆる存在を受け入れて生きていける可能性を持つだけの話である。それが人間という生き物を他の生物と決定的に差別化する点だと言ってもいいくらいだ。我々は生物だが、同時に人間でもあらねばならない。理解できないからとただ排除するのは、「人間」という社会的存在の行う行為ではない。
子供が欲しいと思う同性愛者は多いと聞いたことがある。でも同姓同士では生物学的にそれが叶えられることはない。結婚制度などというものもそもそもは子供を安定して育てるために存在するようなものである。財産分与の問題もあるから無意味とまでは言わないけど、さしてメリットのない制度を利用して安定を図ろうとしても結局は歪みが生じてしまうのだろうか。ジョニーはとてもかわいい犬を息子と呼んで飼っている。でもその犬がジョニーが両親から受けたバトンを受け取ることはない。

ジョニーには堂々と幸せになって欲しいと思っていたけれど、やはり色々考えると簡単ではないのかなと寂しそうなジョニーを見ていてつくづくと思った。自分を含めたファンの在り方についても考えてしまう。すべての女性には少なからず「腐女子」の要素があって、それが強いか弱いかだけの違いなんだろうけど、同性愛者をやたらもてはやすのも全面肯定するのもそれを趣味として楽しむのも、本当はとても歪んだ行為なのかもしれない。決して否定するつもりはないのだ。どちらかというと肯定的だったはずだったのに、昨今は気軽にそう思っていたことに戸惑いを覚えて仕方ないのだ。

…ジョニーの離婚(実際はまだ成立していないようだ)の原因を考えていたら何故かこんな長文になってしまいました。でも旦那の人格以前にそういうことじゃないかと思ったんですごめんなさい。生物としての使命を果たさないのは自分も同じだし、生存競争に敗北したという自覚がとみに生まれつつあることが原因でしょうか。うん、ウゼエ。生物である、という逃れられないさだめにこれほど忠実ではない生物は人間くらいかもしれないが、それこそが人間とも言えるのであり、ジレンマだなあと思うのです。
私生活も何かと話題になるジョニーの場合は様々な声が上がるのを阻止するのは難しいかもしれないけれど、肯定も否定もせずスケーターとしてのジョニーを応援していければいいのかな。ジョニーだものきっとまた復活してくるさ、うん…。

わけのわからなくなったところで以下次号。