うさぎパイナップル

フィギュアスケート旅日記とテレビ観戦記とその他色々色々・ただ書き散らして生きていたい(ライター始めました2018)

確かなことは何も無いけど、此処に在るのは確かにあなた

今週のお題「ゲン担ぎ」

縁起は相当担ぎます。おみくじ、お守り、おまじないに占い、風水だの方位だの、一通りの縁起担ぎは試してきました。開運アイテムだとかパワーストーンだとか、随分買いましたよ(汗)。
何故なら、私は昔から思い通りにならないことがとても多かったからです。有り体に言えば「運が悪い」ということ。もちろん運だけが人生のすべてを決めるのではありませんし、寝て待っていても果報なんて来やしないのも重々承知ですが、それを前提にしても、運というものは間違いなくあると思うし、それが人生に占める要素は相当大きいとも思っています。

そもそも、本当に努力がすべて報われるのなら、縁起担ぎなど誰ひとりしないはずです。勉強が嫌いで一切やらない人間が、霊験あらたかなお守りを買ったからって一切勉強しないで難関校に挑んだとしてもそれはほぼ間違いなく合格しないでしょうが、しっかり勉強しても合格するかどうかわからないというラインにいる人々が、少しでも合格の可能性を上げようと大いなる力なりなんなりに頼るのは心の動きとして何も間違ってはいないでしょう。どんな問題が出ても必ず合格できるほど優秀な頭脳を持つ人はそう多くはないし、努力してもそこまでたどり着けるとは限らない。たどり着いたとしても、同レベルの人間がたくさんいればわずかの差で失敗するかもしれない。たまたま不得意な問題ばかり出題されてお手上げになるかもしれない。そもそも突然の悪天候で受験会場にたどり着けないことだってあるかもしれない。何より、生まれた環境によってはどれだけ優秀であっても受験そのものにチャレンジができない。

人生とはいくつもの「もしも」が積み重なって出来たもの。世の中に絶対なんてない。絶対にうまくいくことなんてない。だからこそ少しでも有利な選択肢を選び、うまくいく確率を上げるために人は躍起になる。未来なんてものは予想はできてもその通りにはならない。
うまくいくと信じたくても人はどうしても不安になるもの。その不安を少しでも解消するために、験担ぎというものはあるのではないでしょうか。これがあるからきっとうまくいく、そう思い込めるツールとして利用し、それで結果が出るのなら安いもの。もし結果が出なければ、縁起担ぎがうまくいかなかった、ととりあえず責任を棚に上げることもできる。もちろんそれは解決にはならないけれど、一時的にショックから逃げる手段を用意しておかなければ、深く心に傷を負ってしまうタイプの方はおそらく少なくはないでしょう。人の心の形は様々です。杖に寄りかからずとも歩ける人間ばかりではない。

もしも「そんなことはない」とおっしゃるのなら、あなたはとても幸せな人で、それこそがまさしく「運がいい」ということそのもの。それはあなたの力だけのことではなく、そう考えているのなら思い上がりもいいところ。
ほんのわずかの選択肢の差で、生死すら決まってしまうことは確かにあるもの。どれだけ才能があり努力したとしても、チャンスが回ってこなければ成功もできない。それは確認が難しいだけで、厳然とした事実だと思うのです。もちろん、それだけに振り回されるようになってはダメですけどね。

いいじゃないですか、「勝つ」に掛けてカツ丼食べるくらい(笑)。それでうまくいく、と思って頑張れるならそれでいいじゃないですか。むしろちょっと面白いよね。こういう「縁起の良さそうな言葉」に由来するものはわかりやすいけど、実はれっきとした根拠のあるジンクスなんてものも世の中にはあるのかもしれません。

今でも験担ぎはします。このブログも実は吉日を選んで開設しました。日にちを無理矢理決めてしまうことで、ずっと迷っていた心に踏ん切りがついたので、そういう意味ではやはり吉日だったのかもしれないです。
ただ、縁起は気にしても、いわゆる「スピリチュアル」的なものとは一線を引いておきたいとは強く思っています。世の中には説明できないことが確かに存在し、自分でも些細なことですがそういった事態に悩んだこともあって、決して不可思議な事象のあれこれを否定はしませんが、それでも、です。

というのも、私はあの手の方のおっしゃる「引き寄せ」的な考え方に昔からものすんごく違和感があるのですよね。
考え方としては別に間違ってもないと思うのです。そういう考え方の方がいてもおかしくないとは思います。でも、
いいことばっかりなんて人生にあるわけないじゃないですか。そんなんわかるやん、生きてたら。
いいことばっかり起きてると思うのはたぶん「たまたま」ですよ。たまたまじゃない、続いてるんだと言うのなら、それはあなたにとって都合の悪い物に蓋してるだけなんじゃないですかね?
単に気に入らないだけの人を「私には必要ない人だから離れていきました」ってニュアンスの話もよく耳にするけど。そりゃ自分だけが幸せになればいいという自己中なあんたが嫌われただけちゃうの?(汗)
めっっっっちゃ違和感がある。要するに「自分さえ良ければいい」の究極形じゃないのこれ?んでそういう人が世の中でいちばん厄介なんですけど。だって自分のことしか考えてないもん。

たぶんこれと関連してるのだと思うけど、「すべては自分が引き寄せていて自分が起こした結果である」っていう考え方も私は変だと思う。でもこれは大抵の占い師やスピリチュアル関連の人が口にする言葉だとも思う。何故なら何度も実際に言われたからさ。ニュアンスは様々だけれど。
これももちろん完全に否定はしないし、その通りかなとも思わないこともない。だがそれ以上に、「責任逃れの言い訳」にしか私は聞こえない。全部が自分のせいだって言うのは責任をすべて負ってるんでは?と思うかもしれないけど、それは自らが自らに対して発した場合でしょ。これらの言葉は他人から誰かに対して発せられているからこそ虚無に聞こえるのだよ。いわゆる「自己責任論」をスピリチュアル的にアレンジしただけで同じことだと私は感じる。

家族の話を例に出してみる。たとえば結婚相手についてはこの自己責任論が当てはまらないとは言えないだろう。私の知り合いには「結婚したら相手の家族が◯◯だった」と悩んでいた人が少なくなかったけど、何で事前に調べなかったんだろうとか、そんな大切なことを話してもくれない相手を、既婚者というステータスが欲しいだけで選んだあんたが悪いんでしょうが、とか、本人には言えないけれど思ってしまうことが多々あった。親が勝手に相手を決めてた時代ならともかく、今は自分で決められる社会なのに、その相手を選んだのは自分だからしょうがない。これから起こることではなく、既に存在していたことを判断できなかったんだから。
でも、自分の親を自分で選んだ人はいない。だって選べないじゃないですか。どんなに酷い親でも選べない。さすがに生まれてくる前のことなんてどうにもできないでしょ。でもそんなことまで「すべては自分が選んでいるのです」って言うんだよ。んなわけねーよ。知ってたら選ばねえよ。
結婚相手の話に戻るけど、確かに選んだのはその人だけど、たまたま判断を誤ることだって人生には往々にしてあるもので、それを悩んでいるのに、「全部あんたが悪いんです」ってバッサリ切ってしまったら、何の解決にもならないでしょう。それで解決するなら警察いらねーんだよ。

目に見えない何らかの力というものは確かにあると思う。それは本当に見えないだけで存在しているのかもしれないし、誰かの脳内に広がる景色があたかも真実のように見えているだけかもしれない。その謎はおそらく私の存命中には解き明かされないだろうし、それに答えが出せるようになった瞬間が人の世の終焉かもしれない。
そういった力に長けた人がいても何もおかしくないし、自分の才能を仕事にしようと思うことも何も間違ってはいない。本当に本当、の人も表に出にくいだけできっといらっしゃるはずだ。
だけど、それは真実かどうか確かめようがない。演技をしようと思えばいくらでもできてしまう世界だ。その成果にしても、確実に確かめることはできない。何とでも言えてしまう。
だから、思うような結果につながらなかった時には、「すべては自分が選んでいるのです」と言って逃れる、そういうシステムに私には見える。相手は悩んで心が弱っている。簡単に信じてくれるだろう。

言い方が良くないかもしれないが、弱い立場とされる人間を相手にする職業の場合、初めは高い志を持っていたとしても、段々支配的な気持ちにとらわれて、勘違いしていく人は少なくないのではないかと思う。ある程度自分を守らないとやっていけないのかもしれないし、少しは必要な要素なのかもしれないけど。
いくら医者にかかったって助からない時は助からないし、それをいちいち医者のせいにするのは間違っている。どんなに注意していても不良品が出回ることだってある。それに対して真摯に謝っているのに許さないような消費者は、そりゃ客の方が悪い。いつでも一方的に客が被害者なのではないし、そもそもそれを選んで金を出したのは自分であるから、昨今の異常なバッシングの数々は普通に考えてもおかしいのである。中には日本語が喋れるのに通じない人もいるわけで。
が、それを考慮しても、自分が結果を出せなかったことを棚に上げて客の努力不足を責めるのは、あの手の職業の人くらいじゃないのかなあ、という気がする。
気に入らない客は帰らせるラーメン屋の話を聞いたことがある。どんな客かは知らないが頑固親父の逆鱗に触れてしまったのだろう。それでもそのラーメンがうまければ、「あの親父最近丸くなったみたいだよ」という噂が流れてくればまた行こうという気になるかもしれない。ラーメンがうまいから親父が頑固でも店は成り立つのだ。
クソ不味かったり味すらわからないラーメンを出されて、これじゃ困るんですけど、とはっきり言ったら「この味がわからないお前が悪い」と追い返しているのが、実はさほどの力もないのにとりあえずそういうことにしてる人たちなのかなあ、という印象です。まあそりゃ、みんな生活してかなきゃいけないわけですしね。そりゃそうだけども。

それでも、話を聞いてもらえるだけでも救われることも多々あるものです。結局それがスピリチュアル的な何かの主な役割なのかもしれません。でも、それにしては高過ぎないか、そのラーメン。1000円のお守りならみんなそんなもんだと思って頼るけど、10万のお守り買って失敗したら腹も立つだろ。それに頼るのは本来は馬鹿馬鹿しいって知ってるから諦めもつくだけで。当たらない占いに意味なんかないし、そんなもん求めてねーんだよ。運の仕組みを解明できる能力がありますとか人生を好転させる手助けをしますとか未来が見えますとか標榜してるからこそ皆が利用するのに、話し相手にしかなれないというのなら初めからそう言って欲しいんだけど。

何度も心がバキバキに折れて、そういう人の門を叩いたことは数限りなくある。それが全部無駄だったとは思ってない。それで自分の不安から少しでも目を逸らせたのならそれはそれでいいのだ。でも、そうやって積み重ねてきたことで、自分なりに篩にかけていった結果、私が出した結論はこうである。

勝ちたい時にカツ丼は食べるけど、すべては自分が選んだ運命なのです理論には決して与しない。

どう違うんだ?って言われそうだけど(汗)。説明が下手ですみません。もし何となくでもわかっていただければ有り難いです(泣)。

最終的にはその選択をしたのは自分ですよ、それは間違いのないこと。ただ、その事実だけをあげつらっても何の解決にもならない。そもそも解決させようとすることが土台無理な話。だったら笑い話で済ませられる範囲でうまく利用するだけでいいんじゃないのかな、ということです。

「アンタはまたそんなことばっかり信じて」ってよく友達には言われてた。実際には私はすべてを疑ってかかってるし、線引きはずっとしてたんだけど、そこまでの話ってそういう忠告をしてくる相手には言いづらいもの。どうしようもなく弱ってた時はその線引きも出来なくなってたかもしれない。今後も口コミ、インターネットや雑誌ではなく口頭でしかも信頼できる筋からの口コミであれば自分の方向性の参考のひとつとして出向くだろうけど、そういうことがなければ、この人なら大丈夫かな、と思えたごくわずかの方だけで占い的なものはもう十分かな。あとは自分でも勉強できることで「うまくいったらめっけもの」くらいな気持ちで実験できればそれでいいや。それくらいは人生をうまく乗りきるためのコツで、目くじら立てるようなものではないと思うのですよ。

ついでに言うと自己啓発本みたいなものも嫌いです。こんなに時間を無駄にしてる気持ちになる書籍って他にない。犯人が即座にわかるつまらない推理小説の方がまだマシ。国語辞典の方が十億倍くらい面白いと思うよ。

どうしようもなく心が折れると判断力も鈍ってしまい、とんでもないことを信じてしまう例はおそらく少なくはないだろう。そんな風になってしまった人を突き放すのは簡単だし、実際に実害が発生する場合は突き放してもいいと思うけど、何故その人はそうなってしまったのか、そこに考えを巡らせることも必要だと思う。
あなたが一言、あの時声をかけていたら、その人はその道を選ばなかったかもしれない。
自分ひとりだけで決めて選んだと感じる選択にも、本当はたくさんの人生が繋がっている。それは決して、その人ひとりだけで引き寄せた運命なんかじゃない。
弱って泣いている誰かに、「◯◯神社はあなたの悩みに効く神様だって。一緒に行こう。ついでに開運スイーツを食べようよ」、そう言ってあげたなら、その人はそれだけで元気になれるかもしれない。よく分からないセミナーなんかに行ったりせず、あなたの大好きだったその人に戻ってくれるかもしれない。開運しなくてもいいんです、きっかけができたなら。もう一度笑えるのなら。歩き出すための力になるのなら。
生きていけるのなら。
目に見えないけれど確かにある力は、そんな風に利用するものだと思うのです。

…お題にチャレンジするたびに話がずれるのですが、大目に見ていただければ幸いです(泣)。