うさぎパイナップル

主にフィギュアスケートの旅日記とテレビ観戦記とお題記事・ただ書き散らして生きていたい

答えのないことにもっともらしくあてはめた答えだとわかっていても

今週のお題「ねこ」

平昌オリンピックの記事はまだまだ続くのですが、この話は書き留めておきたいかな、と思うお題が提示されたので、いったん休止してお題の記事を書いてみます。オリンピックも終わっちゃったので、1日2日延ばしてももうそんなに変わらないかなって(汗)。記事が長過ぎて数日に分けて掲載していたのでどんどん時差が発生しちゃってたんですよね…。既に記事は最後まで書いて予約投稿してあるのですけど、最後の記事が載る頃にはもうオリンピックも世間的には遠い昔のことになってそうでちょっと切ない。


よくある質問に「犬派か猫派か」尋ねるものがありますが、もしどうしてもどちらかを選ばないといけないとなれば、私は猫派です。どちらか以外を選べるなら即答でうさぎ派なんだけど(笑)。犬よりは猫の方がうさぎに近いような気がするじゃないですか。だから猫かな。もちろん犬もかわいいですけどね。動物は裏切らないから人間より好きです←闇を感じる発言

動物に関する不思議な話は時々耳にしますが、特にそういう話題が多いのも猫かなあと思います。私も実際に、何度か猫の行動に不思議なものを感じたことがあったりします。自分が飼ってたわけじゃないので、それを考えると余計に不思議だな、と思ったりして。
その中のひとつの話を、今日は書いてみようかなと思います。なんとなく、今書いておかないといけない気がして。

あれはもう10年以上前のことでしょうか。時刻は確か夕刻、私は屋外のベンチだったかなんだったかに座っていました。
その付近を猫が通りかかりました。野良猫だと思います。どうも近くに生まれて間もない子猫を隠していたようで、その猫は子猫をくわえてどこかへ運ぼうとしていました。
普通に考えれば、そういう状態の母猫は相当気が立っているはずです。なので、そっと見守っているだけだったのですが。

突然、母猫が、私の近くまでやって来たのです。
口にくわえていた、たぶんまだ目も開いていない子猫を地面に下ろすと、母猫はその場に座ってじっと私を見つめました。

私は猫の生態に詳しくはありません。だから、そういうことは実はよくあることなのかもしれません。
けれどやはり、野良猫の行動としてはあまり考えられないことのような気がしました。子猫を連れている野良猫には何度か遭遇しましたが、「目があっただけで怒る」という猫が大半だったと思います。怒らない猫もいましたが、少なくともこんな生まれたばかりの子猫を連れてはいなかったです。

近くに人が来て驚いたのかな、詳しくは忘れてしまいましたが、母猫は子猫をくわえると再びどこかへ行ってしまいました。

野良猫と言ってもそんなに人を恐れている感じではなかったし、「大変だからこの子飼ってくれ」って言いに来たのかな、なんて思ったりもしてるのですけど、あの時の母猫の真っ直ぐな眼差しは、なんとなくそういう意図ではなかった気がするんですよね。もちろん全部私の勝手な想像なのですが。

その頃の私は、色々あってたぶん壊れる寸前でした。
人には4パターンあると思うのです。あくまでたとえなので、深く受け取らないで読んでください。

しっかりした土台を持って生まれて、その土台をさらに固めてもらえた人。
しっかりした土台を持って生まれたのに、その土台にひびを入れられた人。
壊れた土台を持って生まれたけど、その土台を固めてもらえた人。
壊れた土台を持って生まれて、さらにその土台にひびを入れられた人。

私は4番目のパターンに近いかな、と自分で自覚しています。人のせいにするなって言われるかもしれないけど、まずこれを自覚することから始めて人生を作り直さなければならなかったので、まあその辺はとりあえず流してもらえたら。

自分でも自分の不安定さにはずっと恐れを抱いていました。壊れた土台の上に人生を積み重ねているので、それはもうグラグラとして危なっかしいのです。私は自分が長く生きられないような気がしていました。人生のわりと早い段階で、絶望して自分で強制リセットをかけるか、どうしようもないくらい崩壊して生ける屍になるか、のどっちかだろうと予想していたのです。こんな壊れた人間が生きていけるような世界はどこにも無いし無理だと思ってた。だから将来のことなんて考えもしなかったし、生きているなら自分のためではなく自分に寄りかかってくるだろう誰かのためにお金を稼げる自分になる、それくらいしか目標もありませんでした。そしてそれは私の望みではなく、そうでないと自分は生きている価値がないと思っていただけのことでした。

あの猫に会った頃の自分は、その自分が予想していた事態にわりと近い状態だったんじゃないかな、と思います。どうしてこんなことしかないんだろう、というどうしようもない人生でしたが、あの頃もまた、その中でも最悪に近かった状況のひとつでした。
だから思うのです。あの猫はそれを見抜いてたんじゃないかなって。
おそらくは目もまだ見えず、ただ必死で生きようと手足をばたばたと動かす子猫をわざわざ見せることで、伝えようとしてたんじゃないかなって。
生きろ、って。

もちろん、全部私の勝手な想像です。私の話を聞いてそういう解釈をした人がいたこともあって、その説を取り入れてとりあえずそんな風に考えてみることにしたのですけど、深い意味なんかまったくなくて猫にはそもそもそんな本能?があるだけなのかもしれないですし。私が知らないだけで。
ただ、最近すごくあの猫のことを思い出すのです。きっとあの頃のように、今の自分が最悪の状況にいるからでしょう。あの頃はまだ助けてくれる人もいたし、自分で何とか立ち上がる余力もありましたが、今は本当に何もありません。あの頃よりもっと悪いかもしれません。
だから自分のために、この話を書いておくことにしました。

正直、自分がリセットもせず崩壊もせずにこの年齢まで生きていたことが不思議でしょうがないです。グラグラ揺れる人生はただなぞるだけでも難しくて、自分で自分の土台を固める作業もこんなに難しくてうまくいかないものなんだな、と何度も何度も絶望してきたので。すっかり疲れ果てて、今はわりと「無」です。麻痺してる、という感覚に近いかな。
自分がこれからどうなるのか、今は全然わかりません。道は決まっているのですが、きっかけが掴めず足踏みしていて、このままではもう駄目だろうということしかわかりません。
ただ、まだ生きていてもいいのなら、この壊れた土台を少しずつ固めながら生きていけるような、そんな道を選びたいと思っています。もう遅いのかもしれないけれど。

わりと知らない猫がついてきたりするタイプなので(タイプと言うのも変かもしれないが)もしかすると猫に好かれやすいのかもしれず、「この子飼ってくれ」だったんじゃないかなあってやっぱり思ったりもしてるんですけど(笑)、あの時の猫の親子の姿を時々思い出しながら現在のこの日々を過ごそうかな、なんてぼんやり考えてる今日この頃です。でもやっぱり勘違いかもしれないし、理由がなんだったのか知りたいなあ、という気持ち。何であんなに私のこと見てたのかなあ。全然知らない猫のはずなんですけどね。


そんなわけで、明日からはオリンピックの記事に再び戻ります。よろしければまたお付き合いください。そう言えば猫が羽生君の演技に釘付けになる、みたいなニュースを昔見たことがあったけど、その理由は一体何なんでしょうね?猫と一緒に羽生君を見るなら少しは落ち着いて観戦できるかしら(←試合の数日前から緊張で吐きそうになる←しかもここぞという試合は羽生君が滑る前に掃除して風呂入って禊してから正座で見る←ええガチファンですすいません)。あとフィギュアスケートのファンにとっては猫と言えばあ…か…、いや、いやいや何でも(笑)←そのプログラムも含めてその人の大ファンですけどね(笑)