うさぎパイナップル

主にフィギュアスケートの旅日記とテレビ観戦記とお題記事・ただ書き散らして生きていたい

重ならない輪の外からの嘆願書

今週のお題「おかあさん」

世界はたぶん自分が思っているよりも広くて、わざわざ日にちまで設定して商戦にまで発展させて、「感謝しなさい、それが当たり前」と迫られるのが、一部の人間にとってはある意味で恐怖なんですよ、とわかって欲しいかな、ととりあえず前置き。
誰かが作ってくれたきっかけがなければ感謝もできない感謝だなんて、本当の感謝だろうか。物やお金じゃないと示せない感謝なんて本当の感謝なんだろうか?もちろんそれはひとつの形であって、しかもとてもわかりやすいから間違ってるだなんて思ってはいないけど、相手や場合によってはそれが正解だともすごく思っているけれど。あなたがそれでいいならそれでいいし、それはあなたの自由だからあなたの思う通りにすればいい。けれど、あなたのその世界をほかの誰かも当たり前に共有しているとは思わないで欲しいのです。

生んでやったんだから感謝しろ、と言われるたびに、私は「人生が罰ゲームみたいで生きている意味が本気でわからなくて、感謝しなくちゃいけない理由がどうしても理解できない」と頭の中をぐるぐる回る言葉を噛み殺してきました。

私の母は少々変わった人です。近年になって、小学校や中学校の同級生と私の母の話になると、実際の本人を知っているだけに彼らから納得した言葉が返ってくるようになりました。「当時は毒親なんて言葉はなかったからね…」という同級生の呟きは忘れられません。

しばらく人生に躓いていた頃に下された、「両親の愛情不足です」という専門家の判断に母は激怒していました。たっぷり愛情をかけてやった!と。私の目の前でそれを言わないで欲しかった。私は専門家の判断に納得しています。
正直、ここに書けることなんてほんの一部です。書いてもいいのかもしれないけれど、あまりに情けなくてさすがの私も書く気にはなれません。それを書けば納得してもらえるのだろうけど、そこまでさらけ出しても揚げ足を取る人は取るからです。自分が理解できないことは不快なものとして排除する人により世界は回りづらくなっている気がします。傾ける耳を持たない者と話し合って疲弊するほどの余力は私にはありません。

母によると、子供は自分が楽をするために生んだので、言うことを聞けないのなら死ね、だそうです。

なので、殺されなかっただけマシだ、と思って生きることにしています。その考えが極端であることは承知の上です。そうでも思わなければ生きていられないのです。生きててごめんなさい、と毎日誰だかわからない人に謝りながら暮らしています。めっちゃしんどい。

もし最低限の不自由はない生活を送っていたら、ここまでの事態にはならなかったかもしれません。貧しさはこんなにも人の心を破壊するのだと目の当たりにして生きてきたことは、私の人生にどす黒い影を落としました。
みんな苦労してるのよ、という言葉は信号機が青から赤に変わるみたいに当たり前のものとして世界を流れているけれど、明らかに私の母とは苦労のレベルが違う、私から見ればただの贅沢にしか見えない悩みを世界の終わりのようにまくし立てるおばさんたちを、特に社会に出てから頻繁に目にするようになって、私は母が哀れでなりませんでした。子供に突破口を見出だそうとしたのも仕方ないかもしれない。あんなに必死で、体を壊すほど働いていても、生活は楽になるどころか最悪だった。それを誰よりも間近で見ていたので、つらい。本気でつらい。何とかしてあげられない自分を消してしまいたくなるほど。

それでも、私は家族と少し距離を取って、自分のために生きる道を選びました。

私は褒めてもらったことがほとんどありません。小学校入学時から四年以上ずっといじめに遭っていましたが、私は学校を休みませんでした。家にいたら今度は親に怒られる。勉強してテストで100点取らなきゃ怒られる。学校に行くしかなかったのです。勉強や読書で視野を広げたことは自分の基礎になっていると思うので、結果としては間違ってなかったのでしょうけど。だから安易に、学校には行かなくていい、と私には言えません。選択肢のひとつだとしか言えません。
通常であれば、親くらいしか味方になってくれないであろう深刻な事態に、「それだけは言われたくなかった」という言葉を投げてきたのは誰であろう私の母でした。困った時には親を頼れ、とこれまた常識として説かれるたびに、どうしたら目の前のこの人に私の言葉が伝わるのだろう、と絶望的な気持ちで考えました。
あ、いじめにはちゃんと対応してくれたんですよ。転校させるぞコラ、って怒鳴り込みに行ったそうです。要するに学校が揉み消したんですね、あっはっは。揉み消したつもりはなかったかもしれないけど、いじめは止まなかったんだから同じことです。だから基本、子供のためにうんたらかんたら、って教育論みたいなの唱えてる類いの人は信用してないですよ。私のことは助けてくれなかったでしょ。その時の関係者とはみんな別人だってわかってても、みんな同じに見えるくらい不信感が消えないのです。ごめんなさい。

私は元から壊れた人間として生まれてきたのだろうと思っています。さぞ育てにくかったでしょう。スッ頓狂なことばかり言っているおかしな人間だと、大人になった今でも周囲の人は手を焼き、遠巻きに見ているくらいです。
でも、育て方が間違ってたのも事実だろうと思います。学校や会社などの環境にあまり恵まれてこなかったのも事実だろうと思います。
私は「すべては自分のせいである」という、おそらくは程度の低いスピリチュアルにかぶれた人のセリフが大嫌いです。人生は様々な要素が複雑に絡み合ってできています。すべては自分が引き寄せたなどとはおこがましいにも程がある。それは単なる思考停止です。その言葉を使って、何かひとつでも問題が解決しましたか?誰かを救えましたか?その言葉を吐いたあなたは何もしていない。何もしないと堂々と宣言しながら、悩み相談に答え解決したつもりになってるなんて、私は真剣にあなたが怖いです。

思考停止していても進まない。進むかもしれないけどそれは運です。引き寄せようが寄せまいが訪れる運命はある。そういうことです。
私にはその運がない。だから考えなければならなかった。生きている意味がわからなくても生きていなければならないし、ただ生きていることをこの社会のシステムは許してくれない。どうすればいいのか考えなければならなかった。
どうやら私は、子供の時分から当たり前に受け取るはずだったものをろくにもらっていない。自分で拾ってくるなり作るなりしなくちゃならないらしい。そしてそれは、どうやら非常に難しいミッションである。
しかもそれを悩んでいることを表に出してもいけないらしい。出すと「人のせいにしてる」ことになるらしい。感謝の足りない冷たい、わけのわからない不気味な人間だと強制的に扱われるらしい。
私はまずそこに気付くことから人生を始めなければならなかった。普通の人より何十年も遅れて生きている感覚です。

つまり、完全にハードモードの人生なわけですよ。「よく自殺しなかったよね」ってマジで言ってきた友達いましたが、んでどうなんだよそのセリフ、と思いもしましたが、もうホント生きてるだけで褒めて欲しい。もう頑張れないんだってば、何度も言ってるけどさ。
だから他人の人生まで背負えません。少なくとも今は無理です。とにかく自分の足で歩くことだけに集中しないと簡単に転んでしまいます。転んでも手を貸してくれる手はほとんどなく、その手の中に残念ながら家族は入っていないのです。むしろ転んで巻き添えにしないようにしなきゃならない。

花も贈りません。食事もプレゼントしません。今の私には無理です。でも私は生きようとしています。自分の足で歩こうとしています。もうちょっとちゃんと歩けるようになること、そのためにちょっと頑張ること、それが私の感謝です。いいです、最低の人間で。どうせ誰からも価値ある存在として扱われてなんていませんでしたから、今更です。
でもそれは、縁を切ったわけでも心底嫌ってでのことでもないというのは、伝わっていて欲しいかな、と思います。

まあ面白い部分もあるんですよ、母親。私が赤ん坊の頃のアルバムなんて傑作ですよ。「写真撮ってないで止めろよ」「冷静にコメントしてんじゃねえよ」と突っ込むしかない写真が満載ですよ。
たとえば、私と兄弟が並んで映ってる写真があるんですけど、兄弟がギャン泣きしてる横で私が悪魔のように笑ってるんですよ。私が泣かせたようにしか見えないじゃないですか。それに「◯◯どうして泣くのかしら」ってコメントが添えられてるんですよ。もう完全に私が泣かせたようにしか見えないじゃないですか(笑)。てかギャン泣きしてるのに写真撮ってる場合かって思うんですけど(笑)
これはまだマシな方で、もっとツッコミどころ満載の写真がいっぱい。今母が子を育てる年代だったら、絶対インスタとかツイッターとかにこんな写真のっけてて、んで絶対炎上してたんだろうなと思います(笑)。ネタとしては最高なんですけどね、被写体本人だから笑えるだけで、かなりシャレにならんやつとかありますからね(汗)。

あんたみたいにモテなくて子供も生まない人間に子供がいて苦労してる私の気持ちなんかわからないわ、って直接言われたこともあるんですけどね。発言者は私の母じゃないんですよこれが。本人は覚えてないだろうな。そういうことを平然と言えるのが親になるということなら、私は遠慮しておきます。私と同じように空洞を抱えて生きる子供を再生産したくないので。
私にあなたの苦労がわからないように、あなたにはもう一生私の痛みは理解できない。親ではないあなたには戻れないのだから。
でも、「理解できない」で終わるのではなく、わかり合えなかったとしても対話の機会は必要だと思うのです。たぶん、こういうことを言ったり書いたりすればろくでもない奴だと罵られるでしょう。けれど、黙ったままでもやはり私の立場などというものは視界に入ってもいない、一方的でわけのわからないことを言われるだけです。さすがにもう、ちょっとしんどいです。嫌なことは嫌ですって言わせて欲しいです。

もっと面白くて当たり障りのないことだけ書こうと思っていたけれど、少し悩んで、あえてこういう記事にしました。支離滅裂ですね、ごめんなさい。
みんなと同じようにできなくてすみません。わかってあげられなくて申し訳ありません。私も私なりに考えて生きてます。もう少し時間をください、持っていなかったものを手にするまで。
そしてこれだけは言わせてください。

私のように、社会の中で居場所のない人間を作らないで。あなたが子供を行き過ぎない愛情で包み続けていれば、きっとその子はそんな人間にはなりません。その愛情は一生その子を守るでしょう。どうか、心からお願いします。その子のお母さんは、あなたしかいないのだから。