うさぎパイナップル

フィギュアスケート旅日記とテレビ観戦記とその他色々色々・ただ書き散らして生きていたい(ライター始めました2018・生活の糧と居場所募集中)

無力だからただ日記を綴る

誰も読んでないし関心もないんだろうけど、自分のために記録しておく。

一週間経ちました。長かった、この一週間。

金曜日と土曜日の深夜はたぶん本気で「最悪の場合も覚悟しよう」という状況だったので、無事に朝が来たことがわかった時は「良かった、何とか頑張ろう」と思えたけれど、そのあとの反動がきっっつかったです。てかまだその渦中。なんかもう呆然としてる…。
私でこれなので、生活拠点を一気に失った人たちの心中はいかばかりか…。せめて私のように、孤独や孤立に陥っていなければいいが、と思うばかり。逃げておいでよって声かけたいくらいですよ…。ああでもここ、安全な地域とは言えないからなあ…。まだあっちこっちで二次災害の危険があるくらいなので安全な所の方が少ないのでしょうが。

情報収集が命綱だったので、ネットなりテレビなりをこの一週間そこそこ積極的に見ていて、色々感じたこと。

まず、やっぱり多かれ少なかれパニック状態は続いているんだと思った、自分含め。真実なのかどうかわからない情報も何度か流れて、自分も振り回されたものも実はありました。あれだけの被害が出たのだから皆ナーバスになるのは仕方ない。ものすごい快晴にも関わらず、まだ川が氾濫して避難指示が出たりしてるわけですし。
やっぱり情報が大事だな、と痛感した。細かい地区の情報も出てくるし、何よりいちばん早いので、ツイッターの情報にはすごく助けられたけど、不確かな情報も回りやすい。テレビなどで流される、ある程度確かな情報はやはり重要だなと強く感じました。

なので、報道の少なさには正直違和感を覚える。豪雨災害の話題ばっかりやればいいってもんでもないけど、金曜日にはもう被害が出てたのはわかってたのに、いくら土日だからって何故?と申し訳ないが思ってしまった。週が明けても「そのニュースにそんなに時間割く必要ある?」と何度も感じた。
自分から積極的に情報を取りに行く人ばかりじゃない。仮にそうしていても、それは自分の興味ある情報だけで、それ以外には関心がない人も多い。すべての情報に目を通すことはできないから、取捨選択は確かに大切だ。
だからこそ、雑多な情報を垂れ流すテレビ、ラジオ、見出しだけでも拾える新聞は重要なメディアなのである。テレビから散々状況が流れてくれば、いくら自分の周辺のことにしか興味のない人でも(それでも生きていけるからそうなのだろう)、これは危機的な事態なのでは?と気付く。それくらい、人間というものは自分の身に降りかからなかったことには関心を持たない。内容や報道の仕方以前に、「まずきっかけを作ること」は重要なのである。
その観点で言えば、ネットやテレビは今回あまり役割を果たしていないと思った。

あまり言ってはいけないことだと思うし、仕方ない部分もあることを重々承知で、やっぱり今回も思ったので、書いておく。

東京が巻き込まれない限り、大ニュースにはならないんだなあ。

テレビ局だって企業だって多くは東京に本社があって、どうしても東京が中心にならざるを得なくて、東京に何事かが起これば日本の機能が停止しかねないこともよくわかる。東京の街はエネルギッシュで大好きだ。
でも、「これが東京だったら」という方向にしか話題を持っていけない人が必ず出てくるのは何故なのだろう。
東京以外は日本じゃないのだろうか。時々感じてたことなんだけど。
東京が東京でいられるのは数多の地方都市があるからだ。皆が東京に住むことを選択したら東京は成り立たない。それは地方都市にも言えることで、首都機能が別にあるから地方なのだけど、東京以外は日本じゃないのであれば、その逆だって言えてしまう。東京で何が起ころうと、地方都市は地方都市で存在できる。

その辺の「無関心さ」でやりあってもしょうがないだろうと思うのだが、「単に自分が何らかの事態において感じた無関心さへの嫌悪感を無意識か意識的にかは知らないがやり返しているだけなのでは?」という声もたくさん見かけた。何らかの非常事態に遭遇し、その時に感じたことや学んだことを活かしている人もたくさんいる一方で、「これはあの時の教訓だから」として、自分のこと以外に興味のない自分を自己弁護してるんだな、と感じた例もあった。嫌な言い方になるけど、せっかく自分の身に降りかかる体験をしながら、それを活かせる人と活かせない人にくっきり分かれるな、とこの度も思った。

「何故避難しないのか」という声もたくさん聞いたけど、本当に避難できる状況だったかどうか、それは人によるんだから責めてもしょうがないだろうと思ってもいる。
避難所がそもそも被害を受けたとか、家の中より外の状況の方が酷かったとか、体が悪くて動きづらかったとか。あっという間に川が氾濫したり、砂防ダムを土砂が乗り越えたり破壊したり、想像をはるかに超えた被害が起きている状況で、個人の責任にすべてを委ねて話を終わらせようとするのはあまりにも強引だと思った。たぶん、同じ状況で自分が被害を受けたら、この世の終わりみたいにいつまでも騒ぎ続けるんだろうな、とも思ったし。

要するに、あの悪名高い「自己責任論」がここにも引っ張り出されている、のかなと思う。確かに自己責任は大切なことで、究極的にはすべてがそこに収束されるものなのかもしれない。が、自己責任論の何が悪質なのかと言えば、つまり、他人にすべての責任を押し付けて自分は安全なところへ逃れるための言い訳に使われてるからだ、と私は考える。本当に相手に責任があるかどうかなんて関係ない。何もしない、何もしたくない、考えるのが面倒くさい自分を弁護できるから、あの理論はとっても便利なのだ。だからいざ自分のことになると、けろっと忘れて騒ぎ立てるのである。誰しも、世界でいちばん不幸なのは自分だと思っているのだ、程度の差こそあれ。

こういう災害時に限らず、誰かや何かの有事の際に「何もできない」とつい言ってしまうことは多いと思う。私もきっと何度もあるはずだ。でもそれを、本当に打つ手がなくなってから言っている場合は圧倒的に少ないと思う。大抵の場合は先手を打つかのごとく口にしてしまうのではないか。
要するにそれは、何もできないんじゃない。何もしたくないのだ。誰かのために自分の労力を使いたくないのだ。気を遣っているようなふりをして、自分のテリトリーを守りたいだけの言い訳である。
だからって、闇雲に何かをすればいいわけじゃないのも良くわかる。食べるものにも困ってる人が寄付するのは難しいし、体力が落ちている人が無理矢理手伝いに行ってもかえって迷惑をかけるだけ。自分で勝手に「これが必要だろう」と判断して送りつけた物が相手にはただの迷惑でしかないことも多々ある。
でも、何もできないのかと言うと、決してそんなことはないはずだ。

『ひるおび』だったかな、デーモン小暮が出演していて、こんなことを言っていた。広島には知り合いがいるので連絡をしているが、大変だったら返事をしなくてもいい、と添えてメールしていると。
これは満点に近い対応なのではないかなあ、と思う。有事の際の連絡は、確かにするべきかそうでないか悩みどころである。もしかしたらすごく邪魔かもしれない。私も連絡を控えてしまったケースが何度もあった。
だけど、そのように添えてあれば、受け取る方は無理にでも返事を出さなければと思わなくていいし、送る方も返事がなくて当たり前だと思っていられるので過度の心配がいらない。無事なら無事で安心もできる。
何よりも、そうやって心配してくれる相手がいたということが、長い目で見ればその人の支えになるのではないか、という気がする。人生の中で築いてきた誰かとの関係性は、災害によって壊される類いのものではない。そしてそれは個々人が、その人だけが築いてきたものだ。あなたの人生で出会ってきた誰かに、あなたという立場で言葉をかけられるのは、心を寄せられるのは、世界であなたひとりだけだ。だから「何もできない」なんてことは、本当はないはずなのである。しかもそうやってコンタクトを取ることで、できることが見つかるかもしれないのだから。

デーモン小暮氏は子供の頃広島に住んでいたと聞いたことがあります。閣下の子供の頃なら十万年くらい前の話では?とつっこむのはここでは堪えてください(笑)。大学の卒業式のエピソードを聞いた時、この人カッコいいなあ、と思ったんだよねえ。
歌さんと楽さんの毒まみれの掛け合いを聞いて育ち(あれは絶大な信頼関係のもとに生まれたものだったのだと知ったのはずっとあとになってから)、歌が今でも何曲か歌えたり某幹部にマジ惚れする同級生が出てきたりと青春の1ページにいまだオウム事件が大きな影を落としてる私にとって、もっとじっくり掘り下げて見たいニュースがたくさんあったのが本当のところなんだけど、まさに被害甚大な地域にいる身としては、今はそれじゃない、ネット見ない層も多いんだから、と声を大にして言いたかったのは確か。

ああ、私に読者が300人とかフォロワーが3000人とかいれば。いや、100人でもいい。ブログはあんまりこういう場合に向いてないかもしれないが、ツイッターなら、ひとりかふたりくらいは「あれ?ひょっとして大変なことになってる?」ってわかってもらえたかもしれない。しっかりした情報源からの情報を流すことで、多少なりとも貢献できたかもしれない。拡散力ってこういう時のためにあるんじゃないの?違う?
せっかくの拡散力を活かすかどうかはその人次第なんだけれど、要するに自分の利益になること以外はお呼びじゃないんですかね、と思わせてしまうのは得策じゃないのでは?と思ったのも確か。日々色々な意見が流れていくのを目にするけれど、正直「砂上の楼閣」という言葉が頭をちらついていて、何故なのだろうと考えていたけど、その正体が見えたような気がした。崩れてもまた積み上げればいいだけの話だけれど、ね。もちろん、砂のお城ではないところに住んでいる人も多くはないけどちゃんといる。でも、お城が小さくて見えない人の方がもしかすると多いかもしれない。
ツイッターはトラブルがあったので(いつか書ければいいのかもしれないけど…。その元気まだないし永遠に出ないかも…)積み上げ直しになってしまってしょうがないけど、2年近くも毎日ブログ書いててこれじゃ、無力過ぎて涙も出ないですよ。もうちょっとしっかり積み上げることができてたら、こんなに虚しい思いしなくて済んだんじゃないだろうか。自分にできることは、周辺がとにかく酷い状況で混乱してるので邪魔にならないことと、伝えることだと思ったけれど。私には無理でも、どこかで伝わってて欲しい、これは本当に。でもいちばんに「書いて伝えよう」と思った自分に、それがいちばん自分の求めてることなんだ、と非常時だからこそ痛感してしまった。こんなにもうまくいかないのにね。

多かれ少なかれ自分の仕事や生活にも影響を与えるだろうから、「何で品薄なの?」とか何とか騒いで「ニュースくらい見ろよバカ」と突っ込まれないためにも日本のすべての方がある程度情報を知っておいて欲しい、と思う一方、遠方の人はしょうがないんだろうという諦めもある。
だが、それぞれの地元の人までそうなのははっきりダメだと思う。私の周辺だったら広島な。あちこち被害は出てるんだけど、おそらくそれほど大きくなくて話題にもならず、生活にさほど影響の出ていない人も実際には多い。「◯◯は災害の少ない地域で安全だから」とほかの地域に住んでいる人間をバカにしたクズもいた。その地域にそう遠くない過去に大規模な土砂災害があったことを知らないで言ってるんだとしたら本物のバカである。ま、実際に言われたんですけどね、私が。
ほかにも色々と「アンタ何言ってるの?」と思う例が様々ありました。日常通り、通常通りにするのは大事だが、そういうことではなかろうに…、と首をかしげてしまった。
他愛もない会話の中で、年賀状のやり取りで、住まいや会社の所在地は何となく知ってたり、遊びに行ったことがあったりする場合も多々あるんじゃないのだろうか。地元ならなおさらである。こういう時に思い出せるかどうか、それは記憶力の問題じゃないと思った。どれだけ誰かに心を寄せられるかどうかの話で、最後に人間を人間たらしめるのはそこなのではないかと、私は感じている。

レイモンド・チャンドラーの『プレイバック』という小説に出てくる非常に有名な言葉を今また思い出している今日この頃。おそらく皆さんもご存知だろう。両方を備えているのはとても難しいけれど、それを放棄することもまた人間には許されていないのだと痛感する。解釈の仕方もまあ、人それぞれだと思うけれど。この言葉を理解したくて『プレイバック』も読んだんだけど全部忘れた(笑)。『長いお別れ』は面白かったんだけどなー、長いけど(笑)。

しかし、思った以上に復旧が早い。何せ主要道路や線路がほぼ壊滅してたもんな。とりあえず、のところも多いのだろうけど、全力でどうにかしてくださった方々には頭の下がる思いだ。美味しいものいっぱい食べて欲しい…。
イベントも続々と中止になっているが、この交通状況では仕方ない。自粛等々ではない、普通に無理だろう。フィギュアスケートの話題が7割のこのブログ的には来月のプリンスアイスワールドがどうなるかは気になるところだが、一ヶ月後だし開催はされるだろうと考えてはいる。高速道路も復旧するし、新幹線も動いている。ただ、それはあくまで「遠方から来る人」の利便性だけを考えた場合だ。在来線や一般道は来月の開催までに復旧するかどうかわからない、まず復旧しないだろうと思われる路線も多い。地元の人が移動に困難を伴う状況で開催されるのは、正直言って苦しい思いがある。
広島はおそらく10年はアイスショーすら開催されなかった。ショーや試合を見たければ、遠方まで出向くしかなかった。国に保護されるレベルに低い給料をやりくりして、後悔だけはすまいと必死に出掛けていた。やっと地元でショーや試合が開催されるのだ。できれば広島の人に優先的に見て欲しい、と願ってしまうことは許して欲しい。私は貧困のためチケット争奪戦に参加すらできなかった身の上で、無関係と言えばそうなのであるが、だからこそ余計にそう思うのだ。それなのに、このような災害が起きてどれだけ心を痛めている人たちがいるか…。言ってはいけないことなのかもしれないけど、割り切れない思いが残ってしまいそうである。

「無関心」は「嫌い」よりもずっと残酷である。以前から感じていたことを、改めて反芻していた一週間だった。まとまりがないけど、そんなところで終わる。明日からたぶんまた書きためてた記事に戻ると思うけど、色々と割り切れない。でも、いくら叫んだって届きはしないのだから、思う存分勝手に叫んでおくことにする。
お金がなくてなくて、物資不足以前の問題で買い物を控えていましたが、なんかもう精神的に限界だったのでアイスクリームとポテトチップスをやっぱり買ってきてしまった。値段見ないで買っちゃったあたりに自分の限界ぶりが伺えた。大好きだった喫茶店、お金なくて最近全然行けてないけど、大丈夫だったかな。あそこも場所的に被害を受けてるはず。日常がね、削り取られてしまったんだよ。心をえぐっていくように。