うさぎパイナップル

主にフィギュアスケートの旅日記とテレビ観戦記とお題記事・ただ書き散らして生きていたい

歌を覚えた鬼だけにつける名前がたぶん、人

私は人生のうちそれなりの期間を広島で育ったので、いわゆる「平和学習」を毎年夏になると学校で受けていました。広島の学校では当たり前の光景だろうと思います。なので、原爆の投下日時を正確に言えない人の方が日本にはずっと多い、という事実に成長してから気付くのです、我々広島で育った人間は。周囲にはごく普通に原爆を体験した人たちがいて、それは決して寸断された過去ではなく、現在と地続きの日常なのです、この広島では。

学校の体育館に集められて、映画を見たり誰かの話を聞く機会は、毎年必ず設けられていたと思います。ぼんやりといくつかを覚えていますが、私がいちばん記憶に残っているのは、実は原爆の話ではなかったりします。

その日、体育館で話をしてくれたおじいさんは、言っていました。

戦争で、人を殺したと。


細かいことはほとんど何も覚えていません。でも、その話で受けた衝撃の跡は、今も自分の心に残っているのを感じています。

ごく普通のおじいさんでした。
この人が何十年も前に、人を殺したんだ。
この人が。

それが戦争なんだと、小学生か中学生だった私がいちばんよく理解することができたのが、この話だったと私は思います。

こんな普通の人が、人を殺してしまうんだ。
そしてその罪を、一生背負って生きていかなければならないんだ。
よく話をしてくれたな、と今となっては思います。
「何故戦争をしてはいけないのか」「人を殺してはいけないのか」ということを理解させる授業はきっと何度も行われていたはずだけど、この時以上にその答えを痛烈に感じたことはなかったです。


そして思いました。
人は誰であっても、常にナイフを片手に握っているものなのだと。
きっかけさえあれば、そういった状況さえ発生すれば、人はいくらでも殺人者になってしまうんだと。
その手のナイフを、振り下ろして。


凶悪な事件が起きるたびに、自分の周辺からも聞こえてくる言葉があります。

「頭がおかしい。理解できない」

言ってることはわかります。間違ってるとも思っていません。その心情や犯行に至った理由が、とても理解の及ばない内容であることは多々あります。そして、どんな理由があったとしても、起こしてしまった結果を是とすることはできません。

でも。
その言葉の発言者たちに、私は常に違和感を覚えるのです。

この人は、自分には完全に関係ない話だと思っている。
本当にそうだろうか?
本当に理解できないのだろうか?
立場が変われば、時が変われば、

その手に握っているナイフを振り下ろしていたのは自分かもしれない、

と何故思わないんだろうか?


そうだ。
この人たちは、確かにこうやって多くの人に知れわたるような方法では、ナイフを振り下ろさないかもしれない。
でもナイフが刺さるのは肉体だけじゃない。心にも刺さる。深く、深く。
たぶん、この人たちはそうやって、無意識に誰かの心に傷を負わせ、時に死なせている。

その刺し傷が、手にしたナイフを振り下ろすトリガーになる。

そのことに、気付いていない。
気付くはずもない。自分が咎人だなどと、誰も思いたくはないからだ。
自分が正しいと思い込んでいることは、生きていくことをものすごく楽にする。
その代わりに、誰かを追い詰めていくから。
自分の汚れた手に気付いたら、もう生きてはいけない。それを受け入れられない、脆弱な人間だから。
脆弱な人間だから、無意識にナイフを振り下ろして、自分を守っている。

あなたが「彼ら」とは違う、とどうして言える?
違わない。何一つ違ってはいない。


誰も傷付けずに生きていくのは不可能です。そんなことはできない。今幸せを感じているなら、あなたの裏側には必ず泣いている人間がいる。どんなに「いい人」とされている人間でも、24時間365日「いい人」なんかじゃない。誰かにとっては天使でも、誰かにとっては悪魔でしかなく、そして天使が罰を与え、悪魔が救済を与えないとも限らない。
でも、自分が握っているナイフに気付いているかどうかで、その傷の深さはずいぶん浅くなるのではないでしょうか。気付いていれば、振り下ろすことを躊躇うから。

気付いていても、振り下ろしたくなる衝動は時に止められない。でも気付いている人の多くはきっと、その刃を誰かに向けるくらいなら自分に向けてしまう。けどそれは自分にとってもおそろしいこと。
だから生み出すのです、振り下ろす代わりに。刃の先から歌を、美を、文を。それは時に、誰かの手にしたナイフにまとわりついて、振り下ろしてできた傷を浅くする。
だけれど、それでも難しい時は、誰にも歌が届かないと思った時は、
何よりも、無意識の刃に歌を封じられた時には、
その手の刃は自分を突き刺す。そして時に、本当に時に、誰かに向かって振り下ろされる。
ただ、歌を聞くだけで良かったのに。それだけで、そのナイフは誰にも振り下ろされることはなかったのに。
歌に、声に、言葉に、物語に、耳を傾けるだけで。


ずっと考えていることだけれど、平和の本当の根幹にあるものは、「相手の話を聞くこと」だと思うのです。
理解はできないかもしれない。意味はわからないかもしれない。
でも、それでも気付くことはできる。相手も、自分と同じ人間なのだと。
ただ、生まれた場所や時代が違うだけなのだと。
そして、自分の周囲には無限の世界があり、それらはひとつひとつすべて違うのだと。
自分が理解できないように、相手もあなたを理解できない。
だから言葉がある。話すことが必要になる。

すべての争いは、そういった対話を奪ってしまうものなのでしょう。
対話を忘れている状態は、平和に見えても争っているのと何も変わらないに違いありません。
対話を最初から放棄している者もそうでしょう。
対話をすることを覚えている者からもその記憶を奪ってしまったから、あの戦争は今も許されないのだろうと思います。あのおじいさんから、手にナイフを持っていることを忘れさせた。振り下ろすことから躊躇いを奪った。でも、時代という呪いが解けても、そのナイフには一生消えない呪いが残ってしまうのです。本当はそんなものを背負う必要がなかったであろう人にも。


この世界には、おかしな人しかいないのです。
そうでなければ、普通の人しかいない。
どこにでも常識はあるけど、どこにも常識などないのです。
「おかしい」と切り捨ててしまった誰かは、選び損ねた自分の運命だったかもしれない。
そして、切り捨ててしまえるその人こそが、立場や時代が変わればナイフを誰かに向かって振り下ろす存在に誰よりも近いのではないか。

自分は片手にナイフを握りしめた危険人物である。
心の片隅に常にその意識を置いていることこそが、実は平和の礎となるのかもしれないと思っています。
そのナイフを振り下ろさずに済んでいられるのはただその状況を与えてもらえたからで、自分もまた誰かにそのナイフを振り下ろさせないよう状況を与えねばならない。何が状況として必要なのかは対話がもたらす。そしてこの意識こそが平和をもたらす。
でもその意識は、心に深く突き刺さる傷を負って初めて持てるものなのかもしれないと思うと、どうしても人の世に虚無感を覚えてしまうのです…。


73年前のこの日、時代の呪いは解けてはじけて、忘れていた感触が手のひらに戻ってきたのを感じた人たちの恐怖と絶望と、それでも手のひらの感触を忘れまいとした人たちの勇気と苦悩とに思いを馳せると、せめて戦争を理由に「普通」が入れ替わるような事態にはもうならないでほしいと願わずにいられない。
あのおじいさんが自分の腕にかかったままの呪いと見て見ぬふりをせずに向き合い、次世代に伝えようとしたことを、せめて私だけでも忘れまいと思うのです。たとえ私の捉え方が、理解できないと言われても。