本日最終回。とても長い記事ですが、最後まで目を通していただければ心から嬉しく思います。
★町田樹
アダージェット。町田君解説が第1部から説明を始めたので、また3幕構成みたいなやつなのかなと思ったらなんと10分近く切れ目のないプログラム。しかも7部まである。それぞれの部のタイトルを言うくらいで詳しい説明はないんだけど、それだけで伝わるものがある。
神への問いかけのような振付が繰り返される。人によって感じ方はそれぞれだけれど、我々は時としてあまりに重い運命に襲われる。何故?と問いかけても、神は決して答えてはくれない。それでも問わずにはいられない。誰しも他者の運命に本気で向き合おうとはしない。氷の海で溺れていても助けを求めて伸ばした手は振り払われる。どんなに答えてくれずとも、この運命に手を差し伸べてくれるのはやはり神だけなのだ。
最初に跳んだジャンプは転倒だったが、本来はもちろん転倒するジャンプではなかったのだろう。しかしこのジャンプは転倒で良かったような気がしてしまう。そのあと少しずつ精度を増していくジャンプにすら物語が見えるように思えたからだ。
祈れども叶わぬ願いに嘆き、怒り狂い、諦め、それでもそこに希望は残る。生きてさえいれば。ただこの命さえあれば。青い光は雲間に見えた青空か、天からの救いか、止むことのない冷たい雨か、それとも。
町田君が最後の最後に選んだプログラムは、町田君のスケーターとしての人生の再現であり、そして人間という業深い営みの根源に迫るものであった。町田樹という今この瞬間にこの世界に在る肉体を通して、世界を形成する思考の中枢にアクセスしていたような感覚だ。普段は固く閉じられた、その扉を開いて。
この世に生まれ落ちた人間の運命はひとつだけ、ただ死までを生きること。その単純な運命が、これ程までに複雑で苦痛に満ちる。だからこそ人間は芸術を生んだのだ、報われない想いに、叶わない夢に墓標を立てるために。そう、生きていくために。
石原裕次郎と美空ひばりという、昭和の大スターが最後に残した歌をご存知だろうか。人生の最後が迫っていることを知っていたかのような、振り返った人生を高らかに歌い上げるたいへんな名曲がそれぞれに与えられている。歌手としての最後にふさわしい、これ以上はないであろう選曲だった。町田君の演技を見ながら、そのことを思い出した。平成は終わりを告げようとしている。昭和の幕引きとともに二人のスターが世を去ったように、最後の最後に人生を氷の上に歌い上げて町田樹は氷上を去る。
ああ、これカラヤンの指揮なのか。子供の頃「カラヤンの指揮した有名な曲ばかり集めたCD」というのを繰り返し聞き続けていた(今も持ってるけど)私に、その指揮者の名は響くものがある。彼の指揮した曲を集めたあのアルバムは、私にクラシックの面白さを教えてくれたのだった。
何も知らない状態でこのプログラムを見て感想を書きたかった。このブログはフィギュアスケートの感想文のみにほぼ特化することにしたのでもうあまり個人的な話を載せることはないと思うけど、私はもう何年もかなり滅茶苦茶な状態である。子供の頃から人生が重たすぎて何度となく投げそうになってきた私にとってはもう今更の感すらあるが、最近はもう本当に滅茶苦茶である。滅茶苦茶ながらも希望は感じているけれど、この希望も私の思い込みというまやかしかもしれないのである。
そんな今の私だからこそ、このプログラムをこの目とこの耳で味わいたかった。そしてそれを言葉にしたかった。滅茶苦茶な状態だからこそ行けなかったというのが皮肉で仕方ないが。
この日の町田君の演技は、私の人生にもそっと寄り添うだろう。今まさにそれは寄り添うだろう。天が答えてくれずとも、私は神に問い続ける。この人生に希望はあるのかと。神が答えてくれずとも、私は私の心を揺さぶる演技の数々を見つめ、生まれた感情を言葉の海に投げ落とす。この人生に希望が見えずとも。
★フィナーレ
プロスケーターと選手に分かれて登場するフィナーレ。ステファンにしばらくフォーカスしてて、その力学を無視した滑りを堪能できて嬉しかった。それから町田君も。町田君が群舞を滑るのもこれが本当に最後…。
そして、町田君の引退セレモニー。ステファンの「こんばんは」にびっくりした。誰の声かと思った…。簡単な日本語とは言え、本当に自然。
ステファンがゆっくりと、わかりやすい英語で喋ってくれているのがわかる。ステファンと町田君との長いハグ。困ったことがあればいつでも連絡しなさい、と言ってくれてたのか…。
町田君の挨拶。この満員のさいたまスーパーアリーナで行われる、最後の挨拶である。
フィギュアスケートをブームではなく文化に、という言葉。町田君の魂からの声のような言葉。すぐには咀嚼しきれない、重みのある言葉だと思う。そしてその命題の辿る道には相当な困難が伴うだろうとも思っている。
文化の熟成には金が要る。衣食住にも事欠くような生活に、文化も何もあったものではない。「生命を維持する」という人間の根本的な営みが十分に行えない状況で、文化を育む余裕はない。
日本からその余裕は無くなりつつある。いや、あるところにはあるというべきか。何億も投じて宇宙へ行こうとする人間がいる一方で、子供がまともに食事を取れない家庭があることが問題視される。後者のような人間は老若男女いるはずだが、「自己責任」の名の元に救いの手は差し伸べられない。他者を振り返らない貧しい精神と、息が止まらないことだけに注力しなければならない貧しい生活の上に、文化は育たない。
経済活動や生活に直結しないような芸術、職業、研究、個性。そういったものに日本人が金を出さなくなっている。何らかの成果が生まれても生まれなくても、未来の可能性に賭けようという余裕が社会から排除されている。
すぐに、わかりやすく、簡単に、安価で。それは間違ってはいないけれど、それだけに心を奪われ、それだけに心を砕くようになった我々は、自ら可能性と文化をも叩き壊している。その虚しさに気が付いた者たちが、どれだけ流れを変えられるか。期待することも虚しいかもしれない。日本という国の現状を考えた場合に、「文化に」という命題の辿る道程の険しさに思いを馳せずにはいられない。
特にフィギュアスケートは非常に経済的な負担の大きいスポーツである。ボールがひとつあれば始められるサッカーなどとは大きく異なり、スポーツとして開始するだけでもリンクや道具が不可欠だ。
見る方にも負担は大きい。チケットは決して安い価格ではない。個人的な見解だが、フィギュアスケートが文化として定着するには「観客が会場に足を運ぶ」ことは絶対だと思う。テレビで見るのとはまったく違う。テレビでは感じられない、氷を削る音、迫力、臨場感。その魅力を肌で知っているかいないかは、フィギュアスケートへの想いをまったく違ったものにするだろう。しかし、どれだけ願っても息をするだけで精一杯の私がさいたまスーパーアリーナへ行けなかったように、経済面という壁を越えるのは非常に難しい。
チケットの入手の難しさも拍車をかける。儲けを発生させることだけが目的の人間は論外だが、自分たちだけがいい席に確実に座れたらいい、という感覚を当たり前としている人間も、いい加減に気が付かなければならない。自分たちこそが文化の伝播を阻害しているのだと。
道程はかくも険しい。だが、何もできないわけじゃない。むしろ、ものすごく簡単に、我々ファンにもできることがある。
それは、自分の好きな選手やスケーターを信じること。彼らが人生を懸けているフィギュアスケートという競技に敬意を払うこと。
むしろ、ファンにできることなどそれだけかもしれない。
町田君のようにはっきりとした引退公演を行えるスケーターは一握りだ。いつの間にか選手たちは氷上を去り、我々の心を奪ったプログラムの数々を披露することは時として二度とない。
その儚いスケーターの人生に寄り添うことに興味を抱いたのなら、その氷上での人生を見つめること以外に考えている暇はない。気に入らないから、自分の好きな選手より強いから、そんなことで誰かを貶めている暇なんかない。何よりそれは新しく飛び込もうとする人たちを躊躇わせ、純粋に愛していた人たちをこの世界から去らせる。一瞬で世界の果てまで言葉が届くようになった今、それはスケーター本人にすら届いてしまうかもしれない、呪いの刃だ。
毎度毎度インターネットを席巻する放送への批判。地上波放送はあまり興味のない人々への重要な入門編だ。「わかっているファン」への選択肢はいくつも用意されるようになったのに。連盟、ジャッジ、コーチ、メディア、関係者。フィギュアスケートを支える、無くてはならない人たちへの止まない悪意。それらは無くなることはないのかもしれないけど、ごく一部のファンが「わかったような」気持ちになっているだけ、それこそが「ブーム」で終わってしまうひとつの要因だ。きっかけは「ブーム」でいい、そこから広がり、定着することこそが重要なのだ。しかし、自らの欲望が満たせさえすれば良く、それを阻むと判断したものを排除する者ばかりの世界になってしまっては、広がりも定着もあったものではない。
すべてを愛する必要はない。平等に応援する必要もない。いつも同じ熱量で追い続ける必要もない、時には離れてもいい。けれども、「フィギュアスケート」というスポーツそのものに、できる範囲でいい、興味と敬意を抱いていること。それこそがファンの最低条件だ。そんなファンが増えていけば、たとえ会場に行くことが難しくても、フィギュアスケートがブームで終わることはないだろう。
自分の頭で考える。想像力を大切にする。隣で見ている誰かもまた、自分とは違うかもしれないが誰かのファンであることを忘れない。それらはフィギュアスケートだけでなく、日本という国を、いや、世界を豊かな文化で包む基本で、かつすべてだ。
私はファンの立場からしか考えることも書くこともできないので、こんな感想になってしまったけれど、町田君の言うとおり、この競技は観客ありきの競技だ。最も数が多く、そして簡単になれるのがファンだ。我々ファンはこのスポーツを自由に感じて、受け取って、その感激を還元することでしか貢献できないけれど、その力は決して小さなものではないと思うのである。
ステファンに送り出されての周回。町田樹が観客の前で滑る、きっと本当に最後の瞬間。
私はずっとステファンの大ファンで、ステファンが町田君の振付をすると聞いた時は本気で夢じゃないかと思った。何度も書いているけど私が町田君を知ったのは地元広島の新聞記事で、彼がまだ中学生くらいの頃。小さな街だからこそ聞こえてくる話を耳にしながら、ずっとひっそりと気にかけていた。
自分の暮らす街に現れた、心の琴線に触れたスケーターが、ずっと大好きだったスケーターに見出だされ、その振付で滑ると知った時。奇跡だったのだ、少なくとも私にとっては。
ソルトレイクシティーオリンピックからフィギュアスケートを見てきて、フィクションでは描き出せない数多くの物語に触れてきた。生涯忘れられないであろう演技にもたくさん出会った。だが、本当に個人的な話に落とし込んだ場合に、私というどこにでもいるファンにとって、私だからこそ感じられた物語として、彼らのことはたぶん最も忘れることのできない想い出の形をとって私の人生に君臨し続けることだろう。これは「特別」だったのである。
何故行けなかったのだろうこの場所に、と今更ながら地団駄を踏みたくなる。誤解を恐れずに言えば、私はこの場にいなければならなかったはずだ。この物語の震えるほど美しいフィナーレを見届けなければならなかったはずだ。私のこの目で、この耳で。
だが、こうも思うのだ。私が町田君をこの目で見送るのは、広島でなければならなかったのだろうと。
私が今年のプリンスアイスワールドより以前に町田君の演技を広島で見たのは、2013年のスケート感謝祭が最後だった。ビッグウェーブで行われた小さなイベントのエキシビションに現れた町田君の姿を追うテレビカメラなどいなかったはずだ。ふらりと行ける地元のリンクで彼が見せてくれた演技に、広島でこの滑りが堪能できる喜びと同時に、君の活躍の舞台はもっと広い世界のはずだ、と思わずにはいられなかった。
満員のさいたまスーパーアリーナ。ビッグウェーブとは比べ物にならないくらい大きな、大きな会場を埋め尽くす人々。滑りたかったプログラムを最後に、万雷の拍手の中氷上を去る彼を、テレビの向こうで見守る。
もう、町田樹は「広島の町田君」ではないのだ。広島から世界に町田樹は渡されたのだ。それは私が願ったことだった。もっと大きな世界で活躍して欲しいと。それこそが君の舞台だと。
このさいたまスーパーアリーナでの別れの儀式は、町田君が確かに世界へ飛び立っていった証だ。飛び立つ直前の姿を広島で見守れた幸せな私ではなく、飛び立った彼を見つけた人たちが見送るために用意された舞台だ。
そもそも私が広島で町田君を見送れたのも奇跡だった。神は我々の思った通りではないけれど、心からの願いには時に奇跡を用意してくれる。いや、それは奇跡ではなく、定められた運命だったのかもしれない。
今後は学生の本分にしばらく集中するとのこと。きっと演出や振付、テレビでの解説などにも携わっていくのだろう。そして、道が見えたからこそ、そこにはファンがいなければ成り立たないと気付いたからこそ、「応援して欲しい」と言えるようになったのかもしれない。きっと彼も乗り越えたのだ、色々なことを。もちろん、これからもそっと見守っている。その壮大な理想を実現するための道程を。欠片だけでもその礎になれればとも思っている。できればテレ東以外の番組にも出てね、映らないんだよ広島(泣)。
しばらく余韻に浸ったあと、チャンネルを変える。映し出されるクライマックスシリーズの第2戦。カープが逆転していた、菊池のホームランによって。カープ中継のゲストに来た町田君が、自分と同い年だと言っていた菊池。その守備は世界一とも評される、素晴らしい選手だ。
2014年に町田君がゲストとしてマツダスタジアムに来た頃は、カープが三連覇するなんて考えられなかった。どんなに低迷していても諦めなければ未来は来る。応援は選手たちに力として届く。弱小球団が広島の街の文化になっていったように、町田君の願いが形をなす日もいつか訪れるかもしれない。たった一人でもいい、諦めなければ。
フィギュアスケートのファンにとっては不毛の地だったこの広島で、今年こんなにもショーや試合が続くのは、町田君、あなたがこの地にいたから以外に考えられない。あなたの植えた林檎の木は、何年もかけて美しい、瑞々しく紅い実をいくつも、いくつも実らせた。明日世界が滅びても、私はその美しさを、瑞々しさを、素直に美しいと書き綴ろう。たった一人でもいい、伝えていこう。町田君、かつてあなたが氷の上に人生を描いた、この街で。
できるだけ急いで書いたんですけど、何せもう何年も録画のできない状況で、放送を見返すことのできない一発勝負なので、記述内容に間違いがあったら申し訳ありません。
長くなったついでに、過去記事をいくつか置いておきます。未読の方は是非。町田君への自分のメッセージ的なものはプリンスアイスワールドのこの回に書いたので、それと特番の感想を。ジャパンオープンの感想についてもあわせてどうぞ。
usagipineapple.hatenablog.jp
noteも毎日更新中です。だらだらした日記のほか、自己紹介がてら自分の底辺人生を掘り下げるなど、エッセイ的な内容をこちらで書くことに決め、先月から開始しました。ブログ分割によりこの「うさぎパイナップル」はほぼフィギュアスケートに特化します。noteともども今後ともよろしくお願いします。
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