うさぎパイナップル

主にフィギュアスケートの旅日記とテレビ観戦記とお題記事・ただ書き散らして生きていたい

余らせることなく忘れていくために

今週のお題「卒業」


各学校ごとの卒業式の思い出が、思った以上に薄いことに、記事を書こうとして気付きました。

いちばんよく覚えているのは、小学校の卒業式です。何故なら、実は保護者の代表が読む送辞は、私も手伝ったからです。
クジでも引いたのか、私の母が送辞の文面を考える担当だったようなのですが、私の母は忙しい人で、いつまで経っても白紙のまま。見かねた私がいくつかアイディアを出しました(笑)。歯の浮くような、素晴らしくお涙頂戴の名文だったんじゃないかと思います(笑)。

子供の考えた文面ですし、実際には直されてたかもしれないですけど、自分の考えた文章が口頭で読まれるとどうなるのかが気になって、卒業の寂しさとか二の次だったような記憶がうっすらと…。まあ、これはかなり特殊なパターンかもしれません(笑)。


確かに、当たり前に通っていた場所や当たり前に会っていた友達から離れる寂しさは大きかったと思います。だけどそれ以上に、近々移っていく新しい環境に既に気持ちがシフトしている人が多かったような記憶があります。特に高校はそうでしたね。

ひとつの節目として卒業式はいい機会ではある。でも、これは絶対じゃないとも思った。何故なら、人生はまだ続くからです。会う気がなければ会えなくなる場合が大幅に増えるとは言え、それでもまだ会える。永遠の別れではない。
尾崎豊の『卒業』という歌は、非常に荒々しいようでいて、実に的確に真理を突いた楽曲だなあ、と改めて感じますね。

私がたまたまそうだったのかもしれないけど、振り返っても振り返っても式そのものをあまり覚えていないということは、もっと大切なものが別にあったのかもしれません。


ただ、「当たり前」は時としてこんな風に、この春のように突然奪われることがある。突然奪われて、決して返してもらえない。人生とは時にそういうものであると、頭のどこかで覚悟しておくことは必要かもしれない。

だから、会いたい人には会っておかなきゃならないし、行きたい場所には行っておかなきゃならない。明日があるから、次があるから、そう言って流しているうちに、明日も次も二度と訪れなくなる。
物理的に難しい場合も多々あるけれど、できる限り後悔を残さないように生きていって欲しい。卒業の節目を迎える人だけではなく、すべての人に。

私と同じ年だったあの人は、前の晩まで元気だったというあの人は、次の日の朝には、冷たくなっていたという。
あの人に親切のお礼を言えなかったことも、あまりにも突然で事実を受け入れられずお別れも言えなかったことも、私はずっと後悔してる。けど、二度とあの人には会えない。どんなに願っても。

こんな後悔を、抱える前に。
もし返事もくれないような人なら、あなたがこの世に在ることを喜んでもくれないような人なら、たぶんその人とはもう会う必要がない、それだけのこと。

もし、今回それが無理なら、次に出会う場所や人やものとは、できるだけ後悔のないような日々が送れるようにと、会ったこともない誰かのために祈ってしまう。私のこのブログはきっと、振り返られることもなく波間に漂い、どこにも辿り着かないと、わかっていても。


私も、今節目を迎えているんじゃないかと、そんな気がしてる。私が私以外の何かになるわけではたぶんないけれど、私が寂しさと氷でできた世界にお別れが言えるかどうかは、きっと霞む春の空が知っている。

この春に大きくてもささやかでも、新しいステージを見つけるかもしれない誰かが、私が、暖かな陽射しの元でそこに立っていられることを、そっと願っています。


以前noteに書いたこの記事もよろしかったらどうぞ。これ以外にも似たような切り口で過去にも書いてるし、そう言えば卒業のお題も過去にはてなで書いてる気がするけど…。まあいっか、令和版ってことで(笑)。
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