うさぎパイナップル

主にフィギュアスケートの旅日記とテレビ観戦記とお題記事・ただ書き散らして生きていたい

還るのはいつも約束の日

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」


「あんたはよく勉強して、語学をたくさん勉強して、本を書きなさい」

あの日がどんな日だったかはもうあまり覚えていないけど、その言葉をかけられたことだけは、今も鮮烈に覚えているのです。


小学校入学とともに遠方から引っ越してきた私は、田舎の子供たちにとっては完全な「余所者」でした。
一度異物だと認めた相手に対して、子供たちは容赦しません。「自分とは異なる他者」を受け入れずに否定する大人を見て育つとそうなるのか、自分の周囲の子供たちが最初からそうだったのかはわかりません。

兎にも角にも、私はいつもひとりでした。アトピーで肌が荒れていて、運動ができず美人でもなく、方言が違っていて、なのに勉強の成績だけはいい私は、子供たちにとっては「気に入らないから何をしてもいい」という存在だったようです。そんな理屈は本来通用しないはずなのですが、私と私以外の子供たちは、同じ言語を喋っているけど話は通じないんだと思っていたような気がします。

家にも居場所はなかったし、外遊びも嫌いだった私にとって、バスもろくに通らない田舎は本当にどこにも行くところがありませんでした。私はどんなに酷いことを言われても仲間外れにされても学校に通っていましたが、単に行くところがなかったのです。
それに、学校に行けば勉強が進むことも子供ながら知っていました。インターネットが一般的ではない時代の、近隣に図書館も店もない田舎の子供が勉強するには学校以外手段がありません。周囲の子供たちに勝てる要素は勉強だけだったので、私は冷静に、勉強するために通っていました。冷静だったのではなく、心が凍っていたのかもしれません。

その頃の自分を思い出すと。まるで全然知らない他人の記憶のような気がしてきます。今の私を知っている人からは想像もできないかもしれませんが、母親が「時々確認しないと生きているのか死んでいるのかわからない」と言っていたことがあるほど、大人しく、表情や感情表現に乏しい子供だったようです。

自分に対する強烈な自信のなさや、今も究極的には他人を信用できない部分、何よりも「自分は世の中に必要ではない」という空虚感は、この頃に生まれ、私から離れてくれないまま今もすぐそばに座っているようです。


一生このままなのだと思っていた小学校5年生の時、担任が変わりました。田舎の学校なので、クラス替えもなく、2年に一度しか担任が変わらなかった私にとっては、3人目の担任です。

その先生は少し遠くから転勤してきた人で、いい意味で学校の体制に染まっていませんでした。また、先生自身もとても情熱的で個性的な方でした。
そのせいでしょうか、先生は「こんなクラスはおかしい」と改革に乗り出したのです。

小学校に入学してから4年以上、止まることのなかったいじめは、その先生によって完全にストップしました。自分は笑ったり喋ったり意思表示してはいけないんだなと思いながら生きていたのに、笑っても喋っても、自分の意思を伝えても良くなったのです。世界がひっくり返った瞬間でした。たぶん何ヶ月も、急な変化についていけていなかったような気がします。

先生は少々個性的過ぎる私を、私そのものを受け入れて、そのものの私でいいと思ってくれた、最初の人間だったかもしれません。
もちろん、何でも肯定するわけではなく、怒られたこともたくさんありましたけど。

卒業するまでの2年に満たない時間だけでも、いじめに怯えることなく笑って過ごせたことは、私の人生にとって文字通りの「救い」でした。先生が現れなければ、私はとっくの昔に人生を投げ捨てていたと思います。


卒業式のことはもうあまり覚えていませんが、保護者の送辞の文面を考える担当が私の母だったのに、締切になってもまったく書いていなかったので、代わりに私が案を出して、私の考えた名文?を「耳で聞くとこうなるのか」とか冷静に聞いていた記憶はうっすらあります。自分で自分の卒業式の送辞を書くなって話ですけど。

そしてもうひとつ覚えているのが、先生からかけられた言葉でした。

あんたはよく勉強して、語学をたくさん勉強して、本を書きなさい。

私は子供の頃から文章を書くのが好きで、自分で物語を作ったり、先生に提出する宿題の日記を楽しく書いたりもしていましたが、どちらかと言うと、読書好きな子供だからそうおっしゃったのかな、とずっと思っていました。

卒業から何十年も経って、私は先生に初めてそのことを尋ねてみました。覚えているかと。

先生は、覚えていました。そして、私にそう告げたのは、私の文章を日々読んでそう思ったのだと教えてくれました。

私の文章は子供が書くような内容ではなく、先生と生徒ではなくひとりの人間同士として読んでいた。いじめのことも綴っていたけど、誰かを恨むのではなく「何故そうなったのか」と自分なりに分析しながら、気持ちの変遷を丁寧に書いていた。だから読めた。この年齢でこれだけ書けるならこの子は作家になると思った。だからそう言った。もうとっくに作家になってると思ったのに。

先生はそう、教えてくれたのです。何十年も前の卒業生の書いた文章の特徴まで覚えていてくれたのです。私すらまったく覚えていない当時の文章を。
そう言えば、誰よりもたくさん私の文章を読んだことのある人は、もしかしたら先生だったのかもしれません。先生は勉強にも厳しくて、毎日大量に宿題が出ていましたからね。

私がブログを始めたのも、5年近くも続けているのも、先生の言葉がずっと頭に残っていたからなのだと思います。
作家になることは難しいかもしれないけど、インターネットに文章を流すことで、誰かが目にしてくれます。読んでくださいます。その誰かが、たったひとりでもいい、心を動かしてくれたら、面白いと思ってくれたら、それでいいのかもしれません。

私は先生との約束を果たすために、今も書き続けているのです。きっと、一生書き続けるのでしょう。誰かに、言葉が、思いが、届くまで。

私にとっての書くことの原点が、きっとあの日だったのです。


何度か書いている話ですが、改めて先生の言葉を噛み締めるために、もう一度書かせていただきました。同じような内容を読んだことがある人、ごめんなさい。



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