うさぎパイナップル

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数え終わりの秋の夜

お題「読書感想文」

いつぞやにお題の記事を書いた際、京極夏彦氏の『陰摩羅鬼の瑕』を長年読みかけのまま放置していたのでこの秋に読破する、と宣言していたのだが、公約(笑)通り読み終えましたので、証拠として感想を述べてみます。核心には触れないように気を付けたいとは思いますが、どうしてもネタバレしてしまうかと思われますので、未読の方はUターンされた方が良いかもです。
…で、いざ書いてみたら、「犯人の名前とか一切書いてないのに絶望的にネタバレ」感がすごくなってしまった…。なんだこれ(汗)。なので、未読の方は、特に1冊も京極堂シリーズを読んだことがない方は間違いなくUターンでお願いします。

読み終えたのは10月9日くらいだった気がするので、読むと決めてからはそこそこ早かった。やはり自分の心の内以外の可視化できる場所に、あとには退けない宣言をしてしまうのは非常に効果的なのだな、と確信するに至りました(笑)。何せ2年も放置してましたからね、158ページまで読んだまま…(汗)。
もちろん、2年も経つと序盤の展開は忘れてしまったので最初から読み直しました。ちなみに私が読んだのは講談社文庫版です。

そんなわけで感想。
まず何よりも率直な感想として、京極堂シリーズにしてはものすごく「わかりやすい」と思った。こんなにわかりやすくていいのか?と思ったほど。もちろん細かい点まですべて予想できたわけではなく、「なるほどそう来たか」と思った箇所も多々あったのだけど、事件の原因や、その原因の原因みたいなものはだいたいわかってしまった。むしろ、それをどのように「落とす」のか、という点に着目して読み進めていました。

すべての話を細かく覚えているわけではないので曖昧な部分もあるけれど、これまでの京極堂シリーズは「わかりやすい」物語ではなかったと思う。
事件はいつも、人ならざるものの仕業であるかのように不可思議である。『狂骨の夢』なんて初めて読んだ時は最後まで読破したのにわからなかった。登場人物が多過ぎて全然話が整理できなくなったこともある。「わかりやすい」動機で動く人物はこのシリーズには少ない。いや、蓋を開けてみればごくごくシンプルだったりするのだけど、いわゆる「何故このような事件が起こったのか誰にでもわかる常識的な言葉で説明する」という解決方法を望む人にはこのシリーズはまったく向いていないと思う。
登場人物たちには皆確固とした意思がある。ぶれない世界がある。でもその世界は、「我々」が見ている世界とは違う。その人の世界ではそれが正しいのであり、正しかったのであり、単なる「共通言語の違い」が摩擦を生む、それが京極堂シリーズにおける「事件」である。推理小説であって推理小説ではない。何故なら、そこには推理ミステリーにおける約束事、いや人間が欲する常識の枠とでもいったものが存在しないから。恨み、痴情のもつれ、経済問題など、いわゆる一般的に動機とされるものの活躍する余地は、少なくともこのシリーズにおいてはあまりない。

この『陰摩羅鬼の瑕』も基本的に同じである。もちろん、共通言語が違ったからと言ってすべてが許されるわけではない。だが、どれだけ「一般常識」からは外れた思考や行動であろうと、その人間にとってはそれが「当然」だったのだ。それを一切の会話を試みることもなく一方的に「狂っている」ことにしてしまうのは愚の骨頂であり、横暴極まりない行為である。
京極堂の憑き物落としとは、異なる言語を持つふたつの世界を、ひとつの灯りの元に照らし出し、両者にとっての共通言語を用いて語ることである。これによってすれ違うふたつの世界は同じ次元に存在が可能となる。しかしそれは同時に、痛みを伴う結末へと繋がることになるのだ。より住む者の多い世界の言葉に翻訳せざるを得ない以上、僅かな住人が暮らしていただけの世界は眩しい灯りの元に崩壊してしまうからである。

「あなたと私の世界はそもそも違う」ということを、ミステリーの様式で丁寧に述べたのが『陰摩羅鬼の瑕』なのだと思った。文庫でありながらなんと千ページを超え、数日かけないと読み終わらない長さだったのだが、テーマの深さを考えれば、このページ数は必要だったのだろうと読み終えた今は思う。
そう、この本は言ってしまえば哲学書だ。哲学をミステリーの形で非常に読みやすく紐解いてくれた本だ。
哲学書は何故にあんなにも難解なのか。キルケゴールの『死に至る病』は何度読んでも10ページ程で寝てしまい挫折したし、ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』はどうにか最後まで読んだものの「ニーチェってたぶんすごくいい人だったんだろうな」とかいう死ぬほどどうでもいい感想しか持てなかったし、カントのなんかの本(←もはやタイトルすら覚えられない)に至っては確かに日本語で翻訳してあるのに日本語の本だと認識すらできなかった。哲学はセンスが無ければ向かない、的なことを学生の頃に哲学の先生が言ってた記憶がうっすらあるが、その先生の言葉を借りれば私の哲学的センスは間違いなく皆無だ。皆無ですよ!ゼロ!まったくのゼロ!(泣)
しかし、そんな人間でも続きの気になるミステリーの様式であれば、哲学的な思考に抵抗なく触れることも、おぼろげながらイメージすることも可能である。少なくとも入口に立つことはできる。研究され言及され、後世にその残骸であっても何かを残してきた数々の思想は、敬意をもって学ぶべき先人たちの遺産なのだ。そのことに思い至らせてくれる京極堂シリーズは、京極堂が我々読者の言葉に翻訳することで読者に仕掛けた憑き物落とし、なのかもしれない。
だが、それだけではだけでは駄目なのだ。過去の遺産だけでは駄目なのだ。知識は生き物であり、我々もまた生き物である。時は前に進むばかりで決して戻らず、宇宙は常に変遷を続ける。あなたと私の世界は違う。でも、あなたも私も、自分ひとりだけの世界では生きていけないのである。

長さはともかく京極堂シリーズとしては登場人物も少なく読みやすい。ただ、やはりこの物語をその長さに惑わされることなく読み進めるためには、京極堂シリーズの「理」を理解しておいた方が良いと思った。中禅寺秋彦とは、関口巽とは、榎木津礼二郎とは如何なる人物で、ことに京極堂こと中禅寺が行う憑き物落としとは如何なるものか、その約束事と言うか、定型を知っておいた方が、「読者への憑き物落とし」の効果が高いような気がしたので。
という訳で、京極堂シリーズ未読なのにここまで読んでしまったあなたは、是非ほかの作品から読み始められることをお薦めします。比較的短い『姑獲鳥の夏』、圧倒的に面白い『魍魎の匣』、この辺りから始めてみてください。
私も短編集は確か1冊しか読んでないので、次はその辺りに手をつけようかなあ。さて、いつになるやら。

読破を宣言していた記事はこちらです。一応載せときます。

usagipineapple.hatenablog.jp