今週のお題「わが家の防災対策」
「実際に防災において役に立ったものは何か、普段から対策していることは何かを書け」というお題だと思うのですが、その視点では有用なことは何も書けそうにないので、西日本豪雨災害に関して私が実際に感じたことを中心に綴ってみようかと思います。
というわけで、役に立つ内容はまったく含まれないと思いますので、そういう記事をお求めの方はUターンでよろしくお願いします…。すみません。
非常用持ち出しセット
まず、一応お題に答える形で。我が家にもとりあえずは置いてあります。すぐに使えるように、そのへんに転がしてます。ただ、水とか食べ物とかは入れてないので、実際にどれだけ役に立つだろうか?とは考えてしまいますが。何故入れてないかというと、私が普段から食べるものにも困っている底辺で、保存食に回す余裕があったら食べちゃうからです(泣)。
私みたいな超底辺の生活を送っている上に交遊関係的にも孤立している人間(私は交流を持ちたくても金の切れ目がなんとやらでまあゴニョゴニョ)は、災害時に自力で乗り切る余裕がないので、そういう意味でも豪雨災害は不安が大きかったですね。交通や物流など影響はかなり大きかったのですが、ライフラインに問題がなかったのは本当に幸いでした。
情報収集は積極的に
ものすごく痛感したのは「情報の大切さ」です。批判も多く見られましたが、ちょうど土日を挟んだためか豪雨災害の情報は当初テレビでの報道が少ない状況でした。また、災害の範囲が広かったため、実際に自分の生活に大きく関連する細かな地域の情報は、インターネットからほぼ収集することとなりました。特に役に立ったのはツイッター。とにかく情報が早いのです。避難できる周辺状況かどうか、避難所は稼働しているか、近所の店に品物はあるか、道路は通行可能か、そういった情報はすべてツイッターから得ました。普段は非公開でもいいので、アカウントを作っておけばいざという時に非常に役に立つと思います。
ですので、スマホの充電は命綱ではないかと。私の場合は家が停電しなかったのでどうにでもなりましたが、停電状態でも使える充電器は常備しておくべきだなと痛感しました。電池式の充電器を持ってはいるのですが、今のスマホに使えるかどうかを確認してなくて、しまった、と思いましたね。
ただ、災害時にはデマが流れるというのも本当だなと思い知ることにもなりました。情報を流している方は悪気がなかったとしても、結果としてデマに振り回されるだけになってしまった事態も見ました。やはり、自分の生活圏内に発生した非常事態に対しては皆冷静ではいられないということです。テレビの音が聞こえなくなるくらいの豪雨に、生きた心地がしなかった人は多かったはず。恐怖の記憶から、思わずパニックに陥ってしまうのは責められない、と痛感しました。
その点、テレビの情報はインターネットに比べてやはり正確だなと感じたので、できるだけ災害時には優先して放送して欲しいと思うばかりです。地域の公的機関のアカウントやURLを普段からチェックして、アクセスできるようにしておくのも大事かな。で、災害地域以外の方も、そうやってパニックに陥っているお知り合いに正確な情報を伝えたり、落ち着かせるために話を聞いたり、冷静でいられるからこそできることがたくさんあると思います。
そんなわけで、正確な情報収集や停電時の備えに、ラジオは持っておいた方がいいかもしれない。それとラジオ用の電池のストック。小型のラジオでNHKの語学番組を流しながら家事をしていた時期があったんですが、その習慣を復活させようかなと考えてます。普段から使っていれば、いざという時にも慌てずにスイッチ入れられそうだな、と思いましたし。
言葉だけの応援がいちばん要らないよたぶん
規模の大きな災害が発生する度に「支援をするならお金で」という声を耳にしてきましたが、それは真実だと痛感しましたので、これについても書き加えておきます。
災害発生直後には、私にも物資を送ろうか、家まで運ぼうか、と言ってくれる人は何人かいたのです。混乱していたこともあり、そう声をかけてもらえたのはとても心強かったしありがたく思いました。
ですが、スーパーやコンビニに食料品がないというのはすなわち物流が止まっているということ。道路状況も混乱し、通行止めも多数発生している状況。荷物を送れる状況でもなければ、車で近付くのも場所によっては渋滞等で厳しく、二次災害の恐れのある場合も。
結局、声をかけてくれた人が、物流や道路状況が改善してから実際に行動してくれることは一度もありませんでした。それどころか「状況を教えろって言われたから連絡しただけなのに何で私キレられてるんだっけ」と納得いかないっつーかひたすらへこんだだけに終わったことすらありましたね(泣)。忙しいのでって言われてみたり(泣)。
もちろん時間が経ってしまったのでもう必要はないだろうと判断されたということなのでしょうし、私は助けてもらう立場なので本来は何も言えないのですけど、色々考えるきっかけになったので、あえて書いてみます。
あくまで個人的な印象ですけど、災害発生直後はたぶんパニック状態で、アドレナリンみたいなものが出て「何とかしよう」と思うのだけど、災害地域にいる人間はあとから反動によって疲れ、災害地域以外の人間はその反動が疲れてしまった人々への反発になるのだろうか、などと考えてしまいました。よく聞きますよね、だんだんすれ違ってくる的な話…。
で、私の例に限らず、災害時には物流が混乱して個人的に物資を送るのは難しい場合が多いんじゃないかと思うのですよ。でも停電してなかったり、郵便や新聞の配達が行われているなら、現金やそれに準ずるものを送るのは難しくないはずですよね。何より現金ならば本人が本当に必要なものやことに使えます。仕分けも要らないし場所も取らない。本当に相手を支援したいなら、お金が最善の手段であると考えるのは、下世話でも何でもなくごくごく自然なことだと痛感しました。個人が個人を支援する場合でなくても、物資を送るより寄付がいい、って散々言われてますよね。
それでも「荷物を送る以外の手段では支援しない」という人が必ず出てくるのは何故なのか。お金は出さないけど物ならOK、という心理は何故発生するのだろうか。
単純に、お金を出すより物の方がワンクッション置けて行動に移しやすい、というのはあるだろうなあ。特に親しくない人からお金をいただくのは抵抗ありますし、返さなきゃいけない、と思わせるとプレッシャーをかけてしまうかもしれない。
それと、これすごく嫌な言い方になるけど、「損もしたくないし労力もかけたくないけど嫌な人間にはなりたくない」っていう心理の場合も多いんじゃないですかね…。災害時に限らず、自分ちの不要物ばっかりプレゼントしてくる人ってわりといますよね。しかもそれを、多少感謝されるのが目的でやってると考えられる場合が…。災害時に災害地域の人を困らせる、ご家庭の不要物を頼んでもないのに勝手に送り付けてくる人、というのは多分こういう人なんじゃないかなあ。
もちろん、相手が必要だと言っているなら問題ないですけど、困ってると声に出したら「親切でしてやったのに!」とブチキレたりしますよね…。ホントに支援する気があるなら、1000円でも2000円でもいいから、物資を送るために必要な送料の分を現金で寄付した方がよっぽどいいと思うのだが。でも、1000円すらホントは払いたくないんですよきっと。けど感謝はされたいし何もしない奴だと思われたくない。千羽鶴とか寄せ書きとか「もらってどうする」的なものを送ってくる人も同じなのかもしれない。「相手を思ってる自分」が大事なのであって、実際は相手のことなんかこれっぽっちも考えてないんですよ。一切無関心を決め込む人よりは、関心があるだけまだ優しいんだろうと思わないでもないけど、難しい問題だよな、といつも遠くから見ていた話を、少し自分の身にも引き寄せて考える機会になりました。
これだけ災害が頻発するのは今年の夏だけにして欲しいと心底思ってはいますが、日本で暮らしている以上今後も自分含め自分の知人が災害に遭う可能性は決して低いとは言えないので、そういった事態には、相手の意向を汲んだ上で、私は現金で支援しようと思いました。現金が抵抗あるならクオカードとかビール券(笑)とかさ。飲まないとやってらんないぜ、とか言ってる相手なら喜んでくれるかもしれない(笑)。うちの地域でしか買えないようなお菓子がいいって言われたら送ればいいし。
そう、知り合いなんだから、相手の邪魔にならない限りは対話ができるわけですよ。対話から相手に必要なものって判断できるじゃないですか。ってか聞けばいい。それをかっ飛ばして、自分の気持ちや主義や意向を最優先で動いて、相手が意のままにならないからって怒るのは、少なくとも非常事態においてはただの迷惑でしかないと思います…。「感謝される」というのはとても気持ちのいい行為で勘違いも生みやすいので、気をつけなければな、と改めて感じました。
それでも、なーんもしない人よりは、何かしたいという気持ちはあるだけいいんじゃないのかなあ、とはやっぱり考えるのですけど。いちばんダメなのが、こういう災害時に限らず「応援してます!」って言う「だけ」の人ですね。もうね、絶対応援してないから(笑)。絶対手は貸さないけどとりあえずいいことだけ言っとこうってあたりでもう信用ならんから(笑)。家が流されたり食べるものがない人に「応援してますね♪」って言葉をかける「だけ」なのが何かの助けになるとでも…?全然わかんねえー。該当する相手に出会った場合は友達リストからそっと知り合いリストに格下げでいいと思う…よ…。
仮に余裕がなくて何もできなかったとしても、話に付き合うだけでも相手は救われる場合が多々あるんじゃないのかなあ。特に、少し時間が経って「反動」がきてる時なんかはそうじゃないかと。
家族が突然出て行ったり、歳をとって一人になったり、家族や仲間がいても孤独だったり、いつ孤立してしまうかなんてわからないわけですよ。そんな時に「話を聞いてもらえる」ことがどれだけ救いになるか。それは時として、命を救うことにすらなりうる。自分には何もできない、とすぐ線を引いてしまう人は多いけど、決してそんなことはないんです。スーパーヒーローになる必要なんてない。ほんのささいなことでいいんですよ。そしてそれができるのは、その相手との関係性という歴史を築いてきた、自分にしかできないことなんですよ。
などなどつらつら考えると、最大の防災対策は「普段からいいコミュニケーションが取れる人間関係を構築しておくこと」なんじゃないかという結論に達してしまった。そんなん当たり前でしょ、と言われそうだが、災害発生に限らず、生きてると突然大きな環境の変化が訪れることは無いとは言えず、んでもってそういう非常時って「人間が出る」んですよ。よく言われることですがこれは本当で、自分では頼れる相手だと思ってた人が、それはもう面白いくらい簡単に自分に背を向けるんですよ。あれはキツい。何度やられてもキツい。
それを、災害発生という自分の力じゃどうにも防ぎようもない事態ですら平気でやれてしまう人が思ったよりずっっっと多いことを知ってしまいました。はっきり言ってキツいです。キツいなんてもんじゃない。そういう事態を防ぐためにも、少しでも信頼できる相手を見つけておくことは本当に大事だと痛感しました。生活の基盤に困難が生じているような状況ですら個人間で助け合わないって、日本沈むぞそれ。国やら政府に助けてもらおうと思ってるんなら甘いぞ。国やら政府も人間が作ってるんだから。んでもって限界あるから。
ただ、自分にとって本当に信頼できる人は誰なのかを見極めるいい機会にはなるかもしれません。人間はどうしても失言や失敗をするものなので、一度や二度のことでは私は最終判断を下しませんが、自然災害はかなりの非常事態ですし見極めポイントとしては大きいかもです。「さすがに災害を起こしたのは私ではないしぶっちゃけ誰でもないんですけど、そこに自己責任論的なものを持ち込むというのは一体?」と真剣に疑問に思ったりもしました…。あと、死にたいとか言うな!ってクソ説教するのに、命が危ぶまれる非常事態に心配すらしてこなかった人がいたら、その人は相手に死んで欲しくなくて説教してたんじゃなく自分がネガティブなことを聞きたくないだけで、相手の命なんかどーでもいいという証拠だと思うので即サヨウナラでいいんじゃないかなー。まあ、私はアホなので、そういうことを感じたとしても、心底相手を嫌ったりできないんですけどね。行為そのものには腹が立つし明らかに合わねえなコイツ、って思うことも山盛りありますが、でもそれは私と合わなかっただけで、その人のことが好きでしょうがない人もいたりするわけですし。それでも無理な場合もたまーにあるけどさ。
とにかく、孤立することさえなければ助かったのに、みたいな事態になるのは悲しいので、いざという時は見返りを求めず助け合える関係が誰にもあるといいのに、というのはすっごく思いました。理想論かもしれないですけど…。自分で全部何とかできるから人の助けは要らない、と言えるならそれもアリだと思うんですけどね、実際には難しいんじゃないかな。想定外の災害が増えていて、普段から色々備えをしていてもそれが役に立たないような事態は今後も起きるかもしれないけど、どんな事態であっても信頼できる相手はいつもと同じように信頼できると思うので。
逆に、全然知らない人の方がよっぽどしっかり助けてくれるかもしれない。なんかそういうことの方が増えてくる気もしてる。そういう相手には求められなくてもずっと感謝したいし、自分も誰かにとってのそういう相手になることをいとわないでいたい。その感覚が緊急時には不可欠かもしれない。
私は今まさに「何もできない」状況で、地底で這いつくばってるだけの手も足もないアメーバみたいなものだけど、分け与えられる立場まで這い上がれた時に自分がどう行動すべきか、冷静に学べたような気もします。「お前あの時なんつった?」って助けを求める手を振り払うのはできるだけ止めたいけど、私の手は2本しかないから、助ける手は選ぶことになるかもしれません。
今まさに各地で苦しい思いをしている人がいるのに、何の力もない自分が情けないです。本当にごめんなさい。「助けてもらえなかった」苦しみをほかの人には味あわせたくないのに。誰かのその手が振り払われていないことを祈ることしかできない自分がつらくて、本当はこんな文章書いてる資格ないよな、と思っています。
そうだ、これは私がそうなので思うことでもあるんだけど、大規模な災害が起きると自分が被害に遭っていなくても強いショックを受けてしまう人は少なからずいると思います。そういう人は無理してニュース等を見ようとしなくてもいいんじゃないかと思ってます。大変な時に、ただでさえ人間の本性が出やすい時に、自分をいちばん守らなきゃいけないのは心が折れやすい人かもしれません。
普段から繊細さを知ってる人はわかってくれるんじゃないのかな。今時テレビを見なくてもいくらでも情報に触れる方法があるにも関わらず、まったく無関心の人もいますが(そのくせ自分の話はやたらするんだよなこの手の人)、そういう人とは違うと。冷たいわけではなくむしろその逆なのだから、誤解されずにその繊細さが伝わるといいなと思う。で、それが伝わるには、やっぱり普段から、「周囲の人とちゃんと話をすること」が必要なんじゃないかと思うんですよ。話ができないなら、聞いてくれる人を、自分が聞きたくなる人を探す。やっぱり最終的にはここに行き着いちゃうような気がするな。まあ、それが簡単にできたら誰も悩んだりはしないんでしょうけど。
おわりのつぶやき
とにかく、しんどかった。何故かわからないけどとてもしんどかった。あんなに早く日常が戻るとは思ってなかったです。ただ、復旧したのは一部の話で、これからも非日常が続く人や地域はまだある。「無関心」が最も罪深いと痛感したので、忘れてないよ、と意識を向けることだけでも頭に置いて生活していこうと思っています。アンタは他人のことにかかずらってる場合じゃないでしょ、と言われるかもしれないけど、だからこそ。人間にとって最大の毒薬は、孤独と絶望、そして最低限の生活が送れないという恐怖なのですから。大規模災害は、その毒薬を人間に一気飲みさせる要因に大いになりうるのです。
「生き残ったからそれでいい」のではない、人生はその先まで続くのです。その視点は忘れてはいけないと思うのですよ。我々は小さな生き物で、自然には逆らえないし起こってしまったことは元に戻らない。その起こってしまったことをどう乗り越え、生きていくか、そこまで目を配ってこその「人間」で、それはひとりきりではできないことなのです、きっと。